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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

“美味しい”エッセイの書き方

2016年07月15日 【エッセイを書く】

“美味しい”を伝えて文章力を磨こう

グルメブームといわれて久しく、グルメ本も次々と出版され書店では平積みコーナーを賑わしていますが、いっぽうで根強い人気なのが“食”エッセイです。池波正太郎、檀一雄、開高健……、小説を著すかたわら、こだわりの“食”をエッセイに綴り、没しても読者を魅了する著名作家は少なくありません。人々はなぜ“食”に惹きつけられるのか。それは美味なる“食”が誰もがもつ欲求に根差したものであり、また、“食”こそはすべての五感にストレートに訴えて伝えられるものであるから、ではないでしょうか。“美味しい”エッセイは読者を惹きつけてやみません。また、本を書きたい、エッセイを書きたいあなたにとっては、“美味しい”表現を磨くことはきっと有益な文章修業となるでしょう。

ジャンルによって異なる“美味しい”表現

さて、“美味しい”文章とはどのようなものでしょうか。食レポに特化したブログは巷間数多ありますが、情報源としての有用性はさておき、“美味しさ”を伝えるという意味では、その訴求力はビジュアル要素に頼るところが多く、必ずしも文章描写がすぐれているというわけではありません。「外はカリっと、なかはモチモチで、めっちゃ美味しい〜〜!!」「うんみゃーーーーー!!!」など、とりあえず臨場感には富むリアル食レポ文体はおなじみですね。しかし、もちろんエッセイにおいては、「オイシ〜!」やら「感動〜!」やら、表現が自身の感慨に終始していては、読み手の心に響く文章には到底なり得ません。

それでは、食物の特徴や味覚、舌の上での感触を言い表したグルメ・リポーター的口上はどうでしょう。たとえば、高級な霜降り牛肉を食した体験を、「舌の上で脂がとろけるようになくなり、肉汁が口いっぱいに広がって、美味しいあと味が喉を通り過ぎるや、肉の甘い香りが鼻から抜けていった」と表現すれば、その人の感じた“美味しさ”は伝わってきます。でも、そこに読む者の感動を重ねることはできません。それはあくまでもグルメ・リポートで、何度も読み返さずにはいられないエッセイの“美味しい”文章とはまったく異なるものなのです。

名手の筆に見る――エッセイにおいて“食”は食べることのみにあらず

読者を惹きつける“食”体験は、エッセイにどのように描かれているでしょう。それはけっして“食べ物紹介”で終わるものではありません。“食”の向こうに、また別の何かを感じさせてくれるような文章なのです。たとえば、食べるという行為への普遍的・根源的な欲求であったり、子どものころの原体験であったり、愛する人との思い出であったりと、“食”を通して、心の奥に刻まれた記憶を呼び起こしてくれる――それがあるからこそ、読者は“食”をテーマにしたエッセイ本を愛読するのです。では、“食”を通じて記憶を呼び覚ますような文章とはどのようなものか、名著と呼ばれたエッセイを紐解いてみましょう。

「牛乳が飲みたくなったのでは実はないが、根室から旭川に行く汽車が十勝平野という典型的に北海道である草原を通っていた時、或る駅で牛乳を一本買ってその味が今でも忘れられない。これはただそれが鮮やかに記憶に残っているだけで、それではその味はと聞かれてどう説明していいものか解らない」 (吉田健一『私の食物誌』中央公論新社/2007年)

どういう味なのか一切書かれていないのに、牛乳のまろやかで甘い匂いがその味を育んだ北海道の広々とした素朴な風景に結びついて、何とも言えない懐かしさを覚えさせる一文です。次の開高健の一節は、トコロテンと酒の取り合わせの妙を伝えつつ、夏の下町、風鈴が鳴り、すだれが下がる部屋での酒肴の膳をぽっかりと浮かびあがらせてみせます。

「辛口の日本酒の肴としてトコロテンをやることを教えられ、酢と醤油と和辛子のひりひりきいた透明なトコロテンをすすりながら舌を日本酒で洗ってみると、まったくいいぐあいだった。素朴とも洗練ともつかぬ涼しい妙趣がある。それはどうやら東京下町の伝法らしかった」 (開高健『食の王様』角川春樹事務所/2006年)

そこにはもちろん、美酒美食に並々ならぬこだわりをもつ作者の像が彷彿とされるのですが、同時に読者が、慣れ親しんだ店での安らかなひとときや、伝統を受け継いだ庶民の味の記憶を重ね合わせることもできるのです。いっぽう、大家の筆には読む者を鷲掴みにせんばかりの迫力がありました。

「注文すると、カツレツを揚げてくれた。仁王さまの掌のような、いかにも無骨なカツレツ。こいつを食べ残しておいて、ウスター・ソースをびしょびしょにかけ、翌朝になるまでとっておき、『こうして冷たくなった、ソース漬のカツレツときた日にゃあ、たまらねえよ』と、井上留吉がいうので、『よし。では…』とやって見た。無骨なカツレツの白い脂と厚いコロモが、とろとろにソースに溶けかかり、その冷たいのを熱い飯で食べる。これは今でも好きだ。冬にやるのはことによい」 (池波正太郎『食卓の情景』新潮社/1980年)

もはや傍若無人なる食体験ともいえますが、脳髄にガンと一撃食らうような強烈な掴みで、誰が何と言おうと好物の“あれ”を食いたい! と、読者それぞれのソウルフードを思い起こさせてくれるような文章ではありませんか。

さあ、“食べる”を考えて本を書こう

“美味しさ”を“美味しい”と書かずに「表現」することができれば、食エッセイを書きたいあなたのスキルは一歩も二歩も前進したことになるはずです。“食べる”という行為の奥に別の何かを込められれば、小説の深遠な一幕を書くことだって可能となるかもしれません。本を書きたいあなた、“美味しい”エッセイに挑戦してみませんか。