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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

自伝小説を書くために必須のスタンス

2016年08月03日 【小説を書く】

自伝小説のなかの主人公は誰?

小説を書きたい、小説家になりたいと志を抱くあなたは、もしかしたら自分の経験を題材にした作品を創りたいと考えているかもしれません。では次に、あなたが書く自伝小説や私小説の主人公は誰になるのでしょう? それは、あなた自身? いいえ、正解は“あなた”であって、“あなた”ではありません。作者の実体験がベースとなり、さらに作者が主人公のモデルとなる自伝小説・私小説ではありますが、あくまで“小説”というフィクションの形をとる以上、その存在意義は、物語や主人公の存在性を通して読者に何ごとかを伝える文学性一点に絞られます。そんな舞台に、生身のあなた自身が何の備えもなく存在していてはならないのです。

“私”を客観視することの重要性を知る

じっさい、アマチュアの自伝小説や私小説のなかに、生身の作者像が感じられることは往々にしてあります。そうした作品はたしかにリアリティこそ具えているものの、残念ながら主人公の境遇を「気の毒」とか「うらやましい」とか思わせる以上に、何らかの感動を与えてくれるまでには至らないといってよいでしょう。なぜならそのような作品を読むことは、容赦のない言い方をしてしまえば、作者の愚痴(あるいは自慢)めいた打ち明け話を聞かされているのと何ら変わりはないからです。

自伝小説・私小説においては、“私”をどのように描くかがまずは何より大切な一歩となります。近代日本の文芸評論を確立した小林秀雄は、その著書『私小説論』のなかで、西洋の“私”は社会化されているが日本の“私”は社会化されていないと論じました。この言葉に倣うなら、プロの“私”は客観視されているがアマチュアの“私”は客観視されていない、ということになるでしょうか。自伝小説や私小説を書くときに、大前提として押さえておかなければならないポイントは、物語の中心にいる“自分自身”を完璧に客観的に捉えて描くことなのです。

では、作中の“自分”を客観的に描くということはどういうことでしょう。客観視されているか、されていないかは、何をもって判断されるのでしょう。

“客観的視点”をさらに深めたのが“分析的視点”

下に挙げた文章は、教師であった体験を綴った自伝的な小説の導入部です。

 私は元教師である。“元”というのは、言うまでもなく辞めたからだ。ではなぜ辞めたのかというと、精神に変調をきたしたからである。教師として務めていたのは4年間。見方によってはわずか4年、ごく短い年月でもあるだろう。しかし私にとってその4年は、今思い返しても40年に匹敵するほど長く感じられる。精神的にも肉体的にもこれ以上ないという過酷な4年間だった。

この文章からは、教師生活はよほど辛かったのだな、4年間が何十年もの長さに感じられたのだな、ということは伝わってきます。しかしそれだけで、文面の奥に何を感じることもないただの平板な叙述に終わっています。理由は、「私」が客観視されていないからであり、さらにいえば、「私」に対する分析的視点が欠如しているから、ということになります。

次に引用するのは、無頼の小説家・坂口安吾の短編自伝小説『風と光と二十の私と』です。二十歳で小学校代用教員となった体験を綴り、安吾作品のなかでももっとも澄明な1編といわれています。

 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の足音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
 教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。
(『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』岩波書店/2008年)

“感情”を生み出す心の秘密を探ろう

安吾作品を解説するまでもありませんが、当時の自分を客観的に見つめ、その心の内を掘り下げに掘り下げる眼差しが貫かれた文章です。「悲しい」や「辛い」というのは心の内を形容する言葉ですが、人の心は“悲しいから悲しい”のではなく、何らかの要素があって“悲しい”感情が生まれてきます。ですから、自伝や小説を書くためには、「私」の辛さや悲しみが、どこからどのように生じているのかを客観的に見つめて探り出す作業が重要となってくるのです。

考えてみれば、私たちは誰しも“自分の体験”という小説になり得る素材を、いくつももっているといえます。それを掘り出し形にする――そんな自己省察の冒険者としての意識は、「小説を書きたい」というあなたの気もちを、さらに上の次元へと押しあげてくれるに間違いありません。小説を書くために必要なのは、自分を客観視する視座と分析力。これを念仏のように唱えてから、筆を執ってみることをオススメいたします!