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「生きる」「死ぬ」を書く

2016年09月09日 【作家になる】

「誰もが人生に一度は本を書ける」の意味

出版界、とくに自費出版の制作に接することが多い世界に属していると、「誰もが人生に一度は本を書ける」という言葉をよく聞くものです。これは「みんな、本を出そう!」と自費出版を啓発するためのキャッチフレーズなどではなく、この世界に身を置く者が辿りついた偽らざる信条といえます。なぜなら本を書きはじめようという人の多くが、個々の〈切実な事由〉を機に筆を執ることを経験的に知っているからです。そしてその〈切実な事由〉とは、生死にかかわるものです。人間に限らず、生きとし生けるもの何ものもが、「生」と「死」というできごとからは逃れられません。ふだんは遠くにあると思っているこの表裏一体の一大テーマに接したとき、私たちは「書くこと」をもって、生の感動をより深く噛み締め、死の悲しみを乗り越え、あるいは受け入れようとするものなのかもしれません。私たちの誰もが、「生きている」という現状のすぐ裏側に、そうした大きなテーマを抱えているのです。だから「誰もが人生に一度は本を書ける」のです。

「創りモノ」では到達できない凄み

私小説と自伝的小説、あるいは自叙伝といったジャンル間での線引きは非常に難しいものですが、いずれにしろそれらの作品世界の背景に、読者の誰もが「事実」と認める物語が横たわっていることは極めて重要です。たとえその事実が「近親者を亡くした」とか「大病を患った」というような、ありていに言えば小説内ではむかしからよくある陳腐なできごとであったとしても、「事実です」の一点をもって、リアリティなどという次元ではない〈肌触り感〉を読み手に伝えられるからです。

芥川賞作家で無頼派ともいえる柳美里氏、彼女ほど自分のこと、いまの自分につながる血族のこと、そしていまをともに生きる家族のことを赤裸々に描く小説家は近年いません。が、そのなかでも『命 四部作』(『命』2000年、『魂』2001年、『生』2001年、『声』2002年)は、ひときわ「生」と「死」にフォーカスした作品となっています。“話題作”ではなく“問題作”とまで呼ばれた第1作『命』は、柳氏の代表作のひとつといえ、江角マキコ氏と豊川悦司氏主演により映画化もされた大ヒット作です。しかし本作は、Amazonでもノンフィクションの闘病記としてカテゴライズされているように、つまりは小説家が書いた“小説ではない側”の作品なのです。それが氏の代表作であるという――でもそれは、柳氏の小説家としての価値を何ら毀損することはありません。事実の肌触りや「創りモノ」では到達できない凄みに、世のなかが呼応したと見るべきなのでしょう。

シンプルに原点に立ち戻る

小説家とは、物語を創作することを生業とする人のことです。あなたがそれを目指す人ならば、読者を愉しませ、感動させ、驚かせ、脅かすストーリーを紡ぎ出さなければならないと寝ても覚めても感じていることでしょう。それが小説における「創作」なのだから仕方がない、そのとおりです。間違いありません。でも、人間のイマジネーションは有限です。いずれ書けなくなるときが来ます。無限という方もいるかもしれませんが、人が何者かになろうと遮二無二走りづづけていられる期間が有限であるのと同じように、その期間に従って創造性や想像力も決定されると考えるほうが妥当です。そうしたとき、有限を無限と言い張り創作のはるか手前で暗中模索するよりも、そもそも自分が何をきっかけに小説を書こうと思ったのか、その起点の周辺に「生」や「死」といったテーマを帯びたできごとはなかったか、そうしたことに思いを馳せてみることのほうが、よほど有意義な時間を過ごせるかもしれません。

思い当たることがあれば、それを断片的にでもノートに書く。次はそのそれぞれを道標に、自分ための自分の物語を描いてみてください。全人生など壮大な物語とする必要はありません。ほんの一節、ほんの掌編でいいのです。でもそれは、無理繰りに創り出された突飛な挿話と比べ、どんなに読者を引き込む力をもっていることでしょう。さて、そうして自分の作品は書けました。それは次作を生み出すためのモチーフをたたえた、自分だけの大切な人生の第1作となるはずです。

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