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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

“美文”は作家の心の鏡

2016年12月03日 【作家になる】

美しい文章は「美味しい」の意味

“美文”とは、一般的に古めかしい装飾的な文章のことを指します。ですから、必ずしもよいイメージではないのですが、だからといって“美しい文章”を否定することはできないでしょう。時代時代にはふさわしい(あるいはもてはやされた)“美”があり、そのいっぽうで「時」や「場所」に左右されない美しさが見出されたように、時間を経ても輝きを失わない文章は確かに存在しているのです。

では、時代に関係なく、余計な装飾もない、なおかつ“美しい文章”とはどのようなものか――そんな“美文”の本質を暗示する言葉として、文章の読み書きのノウハウを説いた三島由紀夫『文章読本』の一節を挙げておきましょう。

われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生まれていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。
(三島由紀夫『文章読本』中央公論社/1995年)

もちろん作家になるには、読書や文章修業が大切ですが、端正と見えても中身が心許ない文章を“美文”と崇めることはやめましょう。味わうほどに滋養の感じられる文章、あるいは、一見簡素でいて思いがけず美しい情景を浮かび上がらせる文章こそ、普遍的に価値のある“美文”なのですから。

天才作家のノスタルジックな短編の“美”

20代の初の長編作『遠い声 遠い部屋』で天才と呼ばれ、『ティファニーで朝食を』のヒットで一世を風靡したトルーマン・カポーティ。生来両親とは疎遠で、親類の家を転々と移り住むという少年時代を送った彼はまた、そうした薄幸の時代をもとにした作品群を残しました。そのうちの1編『クリスマスの思い出』は、主人公の7歳の少年が“年上の友人”と最後に過ごしたクリスマスの出来事を描いています。

十一月のある朝が来る、ぼくの友だちは、夢羽ばたき、気持は高まり、胸の熱くなるクリスマスの季節が、正式に始まった、とばかりに、高らかに宣言するのだ。「フルーツケーキ日和だねぇ、あたしたちの荷車を引っ張ってきてちょうだい。あたしの帽子を探すのを手伝って」(略)壊れた乳母車を一緒に引いて、庭を抜けてペカンの果樹園へ入っていく。(略)小枝が編んである箇所はほつれかけていて、車輪は酔っぱらいの千鳥足のようにおぼつかない。それでもこいつはしっかり役に立ってくれる。春になれば、荷車を引いて森へ行き、花や香草や野生のシダをどっさり採って、玄関ポーチの植木鉢に植えてやる。夏にはピクニックの道具や砂糖キビの茎でこしらえた釣り竿を積んで、小川の岸辺へ。冬には冬の役目がある。手押し車として庭のたきぎを台所まで運んだり、クィーニーの暖かな寝床にもなるのだ。クィーニーはぼくたちが飼っているオレンジのぶちのある白いラットテリアだ。小さくて強いこいつは、ジステンパーにかかったこともあるし、ガラガラヘビには二度もかまれたのに、生き延びてきた。そのクィーニーが、いまは荷車の横を早足で駆けていく。
(『クリスマスの思い出』/村上春樹訳『ティファニーで朝食を』収録/新潮社/2008年)

作品の舞台背景となっているのは、幼いカポーティにとって不幸の種に事欠かなかったはずの時代です。けれど、少年の日を振り返り再現した物語は、比類なく繊細な郷愁の美しさに満ち溢れていて、その美しさこそは、彼の純真な心が生んだものであろうと思わせます。晩年は著作を発表することもなく、孤独な最期を迎えたカポーティ。彼は、傷ついた少年の心のまま世に出て、醜いものへの耐性をもち得ずについに自らを滅ぼしてしまったのかもしれません――。

文豪の革新的作品に潜む澄明な自然美

文豪・夏目漱石の『草枕』は芸術論を盛り込んだ革新的な作品として評価されますが、山里を行く厭世的な青年画家を主人公としたこの小説では、日本・西洋の芸術作品をそこかしこに並べてしかつめらしく語られるなかで、不意に瑞々しい生命感に胸を打たれる場面があります。

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。
(夏目漱石『草枕』新潮社/2005年)

山里の自然と芸術論とは一見相容れませんが、陰翳を帯びた名画・名作と遠く霞んだ菜の花畑は際立った“美”の対照を見せて、印象深く脳裏に刻まれます。漱石の韜晦趣味も指摘されるこの作品、名工の手慰みのごとき小説構造にあって、不釣り合いなほど精彩に富む自然の風景に作家の純粋な希求が表れていると考えるのは、果たして見当違いでしょうか。

「文章の美しさという様なものは無い」

文芸評論家・小林秀雄には「美しい花がある。花の美しさという様なものは無い」(『人生の鍛錬 ―小林秀雄の言葉』新潮社/2007年)という有名な言葉がありますが、これに倣って「文章の美しさ」と唱えてみると、それがいかに曖昧模糊としたものか実感されてくるようです。そもそも文意を伴う文章には、“美しい”という抽象的な形容はそぐわないのかもしれません。文章は、作者の技量、美意識や感性、思考力によって磨かれることで、その心を映すまでに澄んだ輝きを放つようになります。真に美しい文章とは、つまり、作家自身の技術的・内面的研鑽の産物といえるでしょう。作家になりたい者にとっては、大いに考える価値があるものなのです。