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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

大学者の不羈自由(ふきじゆう)な魂に触れる

2016年12月15日 【作家になる】

人はみな自由な魂をもって生まれる

学びの精神と自由な想像力を育む心は、作家になるために必要不可欠ともいえる要素です。「あたしゃ、そんな高尚な資質をもち合わせちゃいない」と、無頼的ヤサグレ風情を醸してはいけません。勉学の志に燃える人や自由奔放な人を羨み憧れる気持ちは、大小の違いあれど誰もがもつ感情だからです。生まれつき何ひとつの興味も好きなものもないという人はいませんし、ガチガチの100パーセント常識でコンプリートしている人だっていません。「学びたい!」という意欲、自由人になるための因子を、あなたも必ず心のどこかに携えているはずなのです。

植物を愛した男の小さな庭に、大きな宇宙がある

西武池袋線・大泉学園駅にほど近い住宅街に、武家屋敷ほどの小さな植物園があります。植物学者・牧野富太郎の旧居の庭園です。植物採集と植物図鑑制作に終生情熱を燃やした牧野は、90歳近くまで山を歩きまわり植物を採集していましたが、フィールドワークが難しくなった晩年には、この庭で植物を観察し標本を整理する日々を送りました。「植物園」とはいえ鑑賞物的な整然としたところはなく、全体に武蔵野らしいありのままの自然の趣があり、背の高い何種類もの珍しい桜が枝を広げて心地よい木陰をつくるその庭は、まるで時間を止めているかのように、幼少のころから野生の植物に魅せられた富太郎の世界を覗かせてくれます。それは、植物を「愛人」と呼んだ男が辿り着いた、平和な穏やかさに満ちた“園”なのです。

「朝夕に草木を吾れの友とせばこころ淋しき折節もなし」 私は幸いにこの境地に立っている。今世人がみなことごとくわれにそむくことがあったとしても、われはわが眼前に淋しからぬ無数の愛人を擁しているので、なんの不平もないのである。
(牧野富太郎『花はなぜ匂うか』平凡社/2016年)

「日本の植物学の父」と呼ばれた牧野の学歴は小学校中退。後年には学位も得ましたが、ほとんど学校教育とは無縁に生きてきました。もちろん、そうした教育環境を当然のごとく抱えた時代ではありましたが、それ以前に、牧野は自分の志を遂げる道を、ごく自然に自分で選んでいったということでしょう。山に入り、森をわけ入り、ひたすら採集し図を描くことの繰り返し。変わりばえがないように見える道がいつしか拓けていったのは、尽きせぬ好奇心と、目にする植物たちを学び究めたいという透徹した志があったからに違いありません。

私は明治七年に入学した小学校が嫌になって半途で退学しました後は、学校という学校へは入学せずにいろいろの学問を独学自修しまして多くの年所を費やしましたが、その間一貫して学んだというよりは遊んだのは植物の学でした。しかし私はこれで立身しようの、出世しようの、名を揚げようの、名誉を得ようの、というような野心は、今日でもその通り何等抱いていなかった。ただ自然に草木が好きでこれが天稟の性質であったもんですから、一心不乱にそれへそれへと進んでこの学ばかりはどんな事があっても把握して棄てなかったものです。しかし別に師匠というものが無かったから、私は日夕天然の教場で学んだのです。それゆえ断えず山野に出でて実地に植物を採集しかつ観察しましたが、これが今日私の知識の集積なんです。
(『牧野富太郎自叙伝』講談社/2004年)

領域横断的思考を生まれもつ“知の巨人”

生物学、博物学、天文学、民俗学、植物学……と、幅広い分野に足跡を残した南方熊楠は、まぎれもない“知の巨人”でありながら、そんな王冠めいた修飾はそぐわない天衣無縫、型破りの人でした。江戸最後の年に和歌山で生まれ、幼少期は山に入っては幾日も帰らず、東大予備門に入学すれば別天地で植物や菌の採集に明け暮れ中退。そして「留学」という言葉すら耳慣れぬだろう時代に単身渡米し、各地を巡って独学をつづけ、果てはサーカス一座に混じって中南米さえ遊学してのけるのでした。学歴もなくどこにも属さず、ひたすら好奇心・探究心の向くままに学問を究めた「熊楠」の名は世界に轟きますが、彼にとって名声など菌の前には色もなし、生涯かけて集め研究した菌類の彩色図譜の作成を死ぬまでつづけたのです。

多くの菌類や黴菌は、まことに折角人の骨折って拵えた物を腐らせ悪むべきの甚だしきだが、これらが全くないと物が腐らず、世界が死んだ物で塞がってニッチも三進もならず。そこを醗酵変化分解融通せしめて、一方に多く新たに発生する物に養分を供給するから実際一日もなくてならぬ物だ。
(南方熊楠『十二支考』岩波書店/1994年)

熊楠は新種の菌を50種以上も発見しましたが、日常、どれほど菌を探していたかというと、文字どおり“どこでも”探していたようです。自宅の柿の木にも発見していますし、フィールドワークでは、成果が挙がると歓声をあげて山から駆け降り「天狗が出た」と人々を驚かせたそうです。抗議運動の関係で逮捕されれば拘置所で珍菌を見つけ「もう少し置いてほしい」と釈放を拒みさえしました。また、学界でもその名を認められていた熊楠は、昭和天皇の御前講義も行ないましたが、その際、粘菌標本をキャラメルの空き箱(桐などの献上箱に入れるのが慣例)に入れて献上し、周囲を慌てさせたという逸話も残しています。

宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う。
(明治36年6月30日付、南方熊楠差出、土宜法竜宛書簡より)

熊楠は、世界でもっとも権威のある学術雑誌のひとつ、イギリスの『ネイチャー』誌の最多掲載記録を樹立し、その記録はいまだ破られていませんが、初投稿はなんと菌ではなく星座に関する論文でした。ここまで熊楠の〈菌愛〉を説いておきながらズッコケるような話ですが、ところで彼はなぜ自分の専門からかけ離れた分野でも名を成すことができたのでしょうか。その秘密は《領域横断的思考》にあると言われています。ひとつの発想をひとつの分野に限らず、広大な地平を見るように応用し物事を考えたから――と後世の熊楠研究では定説化されています。

民俗学者・柳田國男をして「日本人の可能性の極限」と言わしめ、「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」と、大学や研究所への誘いに背を向け野に在りつづけた熊楠。このような知の巨人に、凡庸な私たちは比ぶべくもないでしょうか――いいえ。非凡な大学者だからこそ、熊楠が教えてくれるものは明快、王道です。作家になるためにも、人生においても、既存の枠組みや価値観に囚われない自由な精神は尊く貴重です。ふと思いついたとき、いつもと違う方角に目を向けてみてはどうでしょう。富太郎や熊楠が臨んでいただろう人生を借景として眺める世界には、思いがけず新鮮な景色が現れてくるかもしれません。