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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

旅の終りには“旅の始まり”がある

2017年01月18日 【エッセイを書く】

「旅」の原点に思いをいたそう

人は旅に出ます。あるときは非日常を求めて、あるときは物見遊山で、またあるときは未知との出会いのために――。いつのころからか「旅」は、余暇を楽しむ方途、趣味として扱われるいっぽうになりました。しかしかつて、旅とは命がけの冒険であり、己と対峙するためにすべてを投じた果てしない流浪であったのです。いやいやそんな時代ではないと、あなたは言うでしょうか。少なくとも紀行本を書きたいと思う人であるならば、いいえ……と異を唱えはじめることでしょう。そう、何かが生まれ何かが絶えていくのが自然の理であるなら、失われる前に出会えるものがいつの世にも必ずあるはずです。そんな“何か”との邂逅こそ、旅の記に深い艶と溌剌とした生気を与えてくれるものなのです。

波乱の旅の果てに出会う原風景

ローレンス・ヴァン・デル・ポストは1906年、南アフリカでボーア人(アフリカのオランダ系入植者)の家系に生まれました。黒人の乳母からブッシュマン(サン人)の民話を聞いて育ったヴァン・デル・ポストにとって、自然、ブッシュマンは故郷の記憶にも等しい存在となりました。そうした環境で成長したヴァン・デル・ポストですから、やがて人種差別の厚い壁にショックを受けます。そして、特異な生い立ちによる思想と激動の時代背景がゆえに、波乱に富んだ生涯を送ることになるのですが、後年、南アフリカに戻ったとき、カラハリ砂漠に暮らす狩猟採集民族・サン人にめぐり会い、幼い日乳母に聞かされ想像した心の故郷を見出したのでした。

こういう人々に何かを贈るにはただ一つの方法しかないことを私はかなり前から気づいていた。それは彼らのためにわれわれの心の中に一つの場所を提供することである。われわれを毒している外面的なものに対する論理的思考を離れて、本来思いやりのある、しかも残酷なほど思いやりを受けることのないこの自然の子らのおかれた立場を理解することである。
(L・ヴァン・デル・ポスト『カラハリの失われた世界』筑摩書房/1993年)

われわれ自身の内部の亀裂こそ、われわれの生のパターンの中にも亀裂を生み出すのだ――それこそが真ん中に恐るべき切り傷を、この暗く深いムランジェの峡谷を刻みつけ、その峡谷に厄災が走り、悪魔が跳梁するのだ、私の本能はそう答える。外の世界に起こる事故や厄災は、内なる自己と厄災とを喰って太るのである。
(『内奥への旅』思索社/1983年)

『内奥への旅』は『カラハリ〜』に遡るアフリカ探検記。峻厳な未踏のアフリカ山地を畏怖したヴァン・デル・ポストは、文明のおよばぬ場所で、人間の「内部の亀裂」こそが世界に破壊をもたらすという圧倒的な啓示を得たのかもしれません。

……余談ですが、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』は、第二次世界大戦中日本軍の俘虜となったヴァン・デル・ポストの自伝的小説が原作となっています。映画の最後、ビートたけしの台詞「メリークリスマス、ミスターロレンス」のロレンス中佐のモデルは、つまりヴァン・デル・ポストだったのですね。

「なるほど」を区切りにつづく限りなき探求の旅

アフリカの友人に言わせれば、「あそこには荒れた土地と猛暑があるだけさ」と、そっぽを向くようなところである。それでも、その土地はわたしを妙に惹きつける。東アフリカの話題が出ると必ず、いつかはそこに行ってみたいという気持ちが、心のどこかに湧き上ってくるのだ。何のためにと問われても困る。結局、そこに行って、「なるほど」、と一言だけ口にしたいためと言うほかない。
(西江雅之『異郷 西江雅之の世界』美術出版社/2012年)

文化人類学者・言語学者の西江雅之は、「なるほど」と口にしたいがために、まるでちょっと散歩に出かけるかのような調子でアフリカまで旅立ってしまいます。実際、パスポートと財布を入れたスーパーのポリ袋ひとつで飛行機に乗ってしまう(そして毎回税関で不審人物と目される)西江にとって、アフリカまでの距離など何ほどのものもなかったのでしょう。きっと彼は、地球上の距離を測る自分だけの大きな尺度をもっていたのではないでしょうか。

20代でスワヒリ語辞典を完成させた西江は、まぎれもなく語学の天才でした。独習でたちまちにして何か国語もの外国語を身につけ、生涯のあいだには50か国語以上を操るようになったといわれます。「失われて欲しくない、とは思わない。しかし、失われる前に一目見たいという願いは否定できない」と、己を分析しつつ異国の地に立った西江。そうしてめぐり会った情景は、あたかも“失われゆくアフリカ”を切り取ったかのように、大地に沈んでいく太陽の雄々しい生命力に溢れているのでした。

まばゆいばかりの陽の光の中に、娘の豊な黒い胸が活発に揺れ動く。全裸で砂の大地を踏みしめて歩く、長老の雄大なる男根が、ゆさゆさと揺れて、威厳というおのを感じさせる。素っ裸の黒い子どもたちの微笑みの中で、白い歯が輝いている。子どもの背丈ほどの大きな魚の背骨が、オブジェのように砂地を飾る。砂丘の遥か向こうでは、湖の青が小刻みに波打ち、白銀色に光る。
(同)

紀行エッセイを書く前に“旅立ち”を振り返る

一期一会の場面を「なるほど」とこともなげな風体で受けとめて、次の新たな旅を脳裏に描いた西江雅之。「本当の出会いには、本気と覚悟が必要だ。しかし、それを持つことも極めて難しい」と語ったその言葉を、旅立つ前に深く噛み締めてみましょう。そして、旅を終えて、ふと紀行文・エッセイを書きたいと筆を執ってみたあなたが、旅の楽しい記憶ばかりを取り出していたならば、ちょっと立ち止まって、そもそもの“旅のはじまり”を振り返ってみてください。何があなたをその旅へと駆り立てたのか。知りたい、見たい、出会いたいと切望したものは何だったのか――。
そこにこそ、書くべき、あなたの旅の本当のテーマが存在しているはずなのですから。