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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

「副詞」を捨て「比喩」を得よ!

2017年02月04日 【小説を書く】

小説の神髄は想像性

「そうだ、小説を書こう!」。そう決めてじっさい書きはじめてみると、あれやこれやと想像をめぐらせなければならないことは山ほどあります。小説を書く際の「想像力」といえば、まず思い当たるのは作品世界に向けての想像力ですが、それと同じくらい重要な方角がもうひとつあります。それは「読者」です。すでに小説を書いている方ならば、「ああ、そうそう。そうなのよ」と思われることでしょう。

小説とは基本的に、図版での情報をもたない文字のみで構成される文芸になりますが、それでいて作品世界は当然のこと3Dなので、その絵は読者に思い描いてもらうほかありません。つまり一般的に言う「上質な小説」とは、文字のみの情報で読者の想像力をフルに喚起し、書き手がイメージする世界、あるいはそれ以上の広がりを、読者の脳内視野に描き出すことのできる作品になります。そこで注意しなければならないのが、ふだん私たちが話すときならば頻繁に使う「副詞」の取り扱いなのです。

で、そもそも「副詞」ってなんだっけ?

――と質問される方に、形容詞は名詞を修飾し、副詞はその形容詞を……と説明しても伝わりづらいでしょうから、ここでは例を挙げて済ませてしまいます。

ex.)1階のコーヒーショップに行ったら、すっごくかわいい女の子がいたよ!

ここでの「すっごく」が副詞になります。この「すっごく」は、「かわいい」をより高めたものとして聞き手(読み手)に認識させるための語です。そして「かわいい(形容詞)」は「女の子(名詞)」を説明(修飾)する語ですから、つまりはこの一文では、1階のコーヒーショップに、いかにかわいらしい女の子がいたか、を伝えようとしているわけです。

これが小説ではなく、いつもの会話のなかで出てきた一文なのであればまったく問題ありません。話をするお互いの関係性や、現場の環境等から、聞き手は妥当性のある話し手の意図を掴むことができるからです。たとえば、話をしているのがモデル事務所勤めのふたりならば、その「女の子」とはスカウトすべき八頭身美人だと想像されます。しかしそこがふつうのオフィスで、話し手が超B専で知られている人物だとすれば、聞き手は「またまた、とんでもないのがいたんだな(笑)……」と想像することでしょう。また、そのコーヒーショップが、夕方ごろになると近所の幼稚園帰りの親子で賑わうような店であるならば、「女の子」はもはや年齢からして先の二例とは異なってきます。

会話にまつわるこうした周辺情報は、現実社会では考えるまでもなく話し手・聞き手の双方で共有できているはずですが、書き手と読み手が同じ景色を見ていない小説など文章の世界では、文字情報によってそれらすべてを伝えなくてはなりません。その際「すごく」では何も伝わらないということなのです。

もちろん、その会話のくだりに至るまでの「文脈」で、ふたりはモデル事務所勤めである、超B専である、幼稚園帰りの母子がよく見られる……といった諸情報を読者に示すことはできますし、「かわいい」を飾る語を探す以前に、読者へのそうした配慮は必要です。しかし、話し手にとってその「女の子」がどのように映り、どのような心理を催させたのか――といった彼の内面にまで迫るためには、別の技術が求められるのです。それが「比喩」です。書き手が話し手の心象に投影した景色と同じものを読者にも想起させるために、共通で知っている「喩え」を並べ、互いの認識をつなぎましょうね、ということですね。

村上春樹を唸らせるカポーティの文章

ノーベル文学賞の発表前には、(おそらくは本人は望んでもいないのに)毎回下馬評に名前を載せられる村上春樹氏。作品を読んでおらずとも、その名を知らぬ人はなかなかいないでしょう。氏は、平易な言葉で深い意味合いを伝えることでも高評ですが、彼もまたひとりの文学ファンであり、当然ながらお気に入りの小説家というのがいるわけです。そのうちのひとりが、トルーマン・カポーティ。

19歳のときにオー・ヘンリー賞を受賞し、若き天才作家として注目を浴びたアメリカの小説家――というふうにウィキペディアではまとめられていますが、オードリー・ヘプバーン主演の映画『ティファニーで朝食を』の原作者といえば、誰もが「あ〜」と頷くでしょうか。村上氏はその『ティファニー』新潮社版の訳者でもあるのですが、そこでのあとがきにこんなふうに書いています。

僕もこの翻訳をするために、何度も繰り返しテキストを読み込んだが、その研ぎすまされた無駄のない文章には、いつもながら感心させられた。何度読み返しても、飽きるということがなかった。
(カポーティ・著 村上春樹・訳『ティファニーで朝食を』新潮社文庫/2008年 271ページ)

当然ながら村上氏は、カポーティの「比喩」に限定してこう評しているわけではないのでしょうが、本稿のテーマ「比喩」に着目して『ティファニー』を読んでみると、そこには目を瞠るべき技が仕込まれているのです。

彼女はほっそりしたクールな黒いドレスに、黒いサンダルをはき、真珠の小さなネックレスをつけていた。その身体はいかにも上品に細かったものの、彼女には朝食用のシリアルを思わせるような健康な雰囲気があり、石鹸やレモンの清潔さがあった
(同上 23ページ)

前半の軽い人物描写を、後半の比喩でもって徹底的に補強しています。「上品に細い」とはどういうことなのかを示すために、カポーティは「朝食用のシリアル」「石鹸」「レモン」を比喩としてもち出しています。それらの材料から私たち読者が想起するイメージとはどんなものでしょうか。それを副詞や形容詞で表すとすれば「彼女は健康で清潔でスポーティで爽やかで都会的で甘酸っぱい感じもして――」と、酔っ払いの繰り言のようにもたついた状態に陥り、文章的に美しくないどころか、「彼女」のアウトラインばかりを辿るようでいっこうに立体像を思い描くことができません。
「石鹸」や「レモン」あたりの比喩なら、がんばればどうにか日曜作家でも思いつくかもしれませんが、「朝食用のシリアル」、こればかりは逆立ちしたって出てきやしません。こうした横綱クラスの比喩にはじまり、さりげないもの含め『ティファニー』には優れた比喩がふんだんに盛り込まれています。少々数が多くなりますが、以下に並べてみましょう。

聞かれもしないのに、自らの内情をあけすけに好んでしゃべりたがる人が往々にしてそうであるように、彼女は直接的な質問をされたり、細部の説明を求められたりすると、とたんに防御が固くなった。
(同上 35ページ)

まずこちら。やや説明文的なこの比喩が優れているのは、「おしゃべりな泥棒は怪しい」というように、犯罪者などsuspiciousな存在に対してありがちな描写を施しているわけではない点です。「彼女」とは、前述の朝食用のシリアルを思わせる「彼女」です。そこを対象にした比喩であるため、誰もの内面に備わる人間心理を的確に言い当てているようにすら感じられるのです。

(「僕」が「ホリー(前掲引用文の彼女)」と一次的に疎遠になってしまったくだりのあとで)――まるでいちばんの親友から見捨てられたときのような気分だ。孤独が生活にしのび込んできた。僕の心はなぜか落ち着かなかった。しかしだからといって、ほかの古い友人に会いたいという気持ちも湧いてこなかった。彼らは今では、砂糖も塩も入っていない料理みたいにしか感じられなかった。
(同上 46ページ)

原文との照会を行っていないので、これはもしかしたら訳者村上氏による意訳かもしれませんが、比喩として学ぶべきものを備えた一節です。末尾をひと言で済ませるならば「彼らはどうにも味気ない存在にしか感じられなかった」になるでしょうか。その「味気ない」ということがどんな感触なのかを、五感に訴えるように書くとすればこうなるわけですね。

戻ってきたマグ・ワイルドウッドは、先ほどまでそこにあった友好的な空気が唐突に失せてしまっていることを発見して、わけがわからなくなった。彼女が何か話題を持ち出しても、それは生木を燃やすみたいにすぐに消えてしまった。煙を出すだけで、炎があがらないのだ。
(同上 74ページ)

これは現に生木を燃やそうと苦労したことがある人ならば、何度も頷く一節なのではないでしょうか。最後の一文「煙を出すだけで――」が不要なのではと思われるほどに、その前段での生木の比喩が十二分に効いています。

策略にとっての飲酒は、マスカラにとっての涙の如く致命的である。
(同上 74ページ)

これは好き嫌いの分かれるところかもしれませんが、このウィットに富んだシャレオツな言いまわしは、あたかも古代の賢人が遺した箴言かのようです。ゆえに、どこぞのバーで得意げに口走ってしまっては「キザ」のそしりを免れないので要注意。『ティファニー』の作品世界が下地にあってのハマる比喩といえるでしょう。

彼はいろんなものを丁寧に寄せ集めてこしらえられたような人物だった。茶色の髪と闘牛士のような体型の組み合わせがまさに、完璧だった。リンゴとかオレンジと同じように、自然が絶妙な配合をもって生み出した存在なのだ。
(同上 77ページ)

前半部の比喩はいたってふつうです。ですが、そのふつうの比喩で終始してしまいそうな「完璧」の説明を、その直後の一文でもってそれこそ完璧に言い当てています。リンゴとかオレンジ、つまりそれらは「神」の差配によってのみ地上にもたらされるもの。それと同クラスの完璧さを備えているのが「彼」だったのですね。あっぱれ。

あの人、アタマが火照ってるだけで、知恵が足りないわけじゃないの。彼がやりたいのは、内側にこもって、そこから外を眺めること。で、ガラスにぴたっと鼻をくっつけている人って、だいたい間が抜けて見えるものじゃない。
(同上 78-79ページ)

小説家になることを志している「僕」を評してホリーが放ったひと言です。比喩が二段構えになっていることにお気づきでしょうか。小説家を目指す「僕」は、ある意味モラトリアムな状態で実社会から遊離した生活を送っています。誰かと激しく意見を交換するような素振りもありません。そうした姿勢をホリーは「内側にこもって、そこから外を眺める」と見て、そんなことをしているのがどんな人物かといえば「ガラスにぴたっと鼻をくっつけている人って――」と表現しているのです。大のおとなが「ガラスにぴたっと鼻をくっつけて」いる様は、誰の目にも……。そんな共有できる感覚を、カポーティはホリーの口を借りて伝えているのです。

好きな男の姿をまじまじ見ることのどこが不都合なのよ? 男って美しいものよ。世間には美しい男がたくさんいるわ。ホセだって美しい。それを見たくもないなんて、まったく興ざめなことよ。男の人にしてみれば、そんなのまるで冷めたマカロニを食べるようなものでしょうが
(同上 81-82ページ)

こちらはカポーティ節のみならず、春樹節をおおいに感じる一節です。どれほど「興ざめ」かというと、「冷めたマカロニを食べる」ぐらいのことのようです。人間の五感――視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚――のうち、味覚は比較的、共通認識の領域の広い感覚といえますから、この例はきょうからでもすぐに取り入れられる参考例なのではないでしょうか。加えて、取り上げるアイテムによっては、「食」は作中の空気を創り出す有能な小道具としても働きます。陳腐化されすぎてこれを小説で使うと完全にNGですが、「事務机」の上で「電気スタンド」が「カツ丼」を照らしていれば、ああそこね――という感じですね。

そのたおやかに隙のない着こなしは、あたかもクレオパトラの侍女たちの手で丹念に着付けをされたかのように見えるのだ。
(同上 86ページ)

こちらも多少好みが分かれる一文でしょうか。比喩も作品世界から逸脱し飛躍しすぎると、どこか興ざめた印象を残すものですが、そのギリギリのライン取りをするのもまたこの作者の妙であり、真骨頂と見ることもできる危うさでもあります。逆説的な比喩表現を使うならば、安定感しか感じられない綱渡りや空中ブランコは、さして観衆を魅了しないといったところでしょうか。

「何か盗もうよ」と彼女は言って、僕を店の中に無理に連れ込んだ。中にはいると、みんなの視線が僕らに注がれているような圧迫感を感じた。何もしないうちからもう、目をつけられているみたいだ。
(同上 88ページ)

万引きにまだ慣れていない初犯の人間の心境を表すのに、この後半二文ほどの表現があるでしょうか。犯人が気にするのは、何より人に見られはしまいかということ。「みんなの視線」「目をつけられて」とたたみ掛けることで、数多の視線が自らに注がれているかのような心細さが読み手にも伝わります。

(人種も社会的地位もちぐはぐな四人組について)――四重奏団として見れば、彼らはあまり調和のとれた音を出さなかったが、その責任の大半はイバラ=イェーガーにあった。というのは、そのグループの中では彼一人が浮き上がっていたからだ。ジャズバンドに混じったバイオリンみたいに。彼は知性があり、押し出しが良く、真剣に自分の仕事に取り組んでいる人のように見えた。
(同上 90ページ)

全体的に見ると、ここでも二層の比喩が重ねられています。「彼ら」を「四重奏団」とし、その比喩の延長線上で「イバラ=イェーガー」を「ジャズバンドに混じったバイオリン」と喩えています。いまでこそジャズは知的な趣味と見られますが、その成り立ちを考えると、アメリカ南部の移民による即興性の高い音楽だったわけですから、『ティファニー』が発表された1950年代においては、クラシックとの対比ではもう少しくだけた印象を与えるジャンルだったのかもしれません。ゆえに、そこに混じるバイオリンは、いささか毛艶がよすぎて浮いてしまっている――ということをもって、つづく「知性」「押し出し」「真剣」などの特性を的確に伝えています。

彼女はサングラスをかけたまま、机の上に書籍を砦のように積み上げていた。そしてそれを片っ端からとばし読みしていった。時折あるページの上に視線がとどまったが、その眉間には常にしわが寄せられていた。まるで上下が逆さまに印刷された本を読んでいるみたいに見える。
(同上 92ページ)

本来であればまったく似つかわしくなく、縁遠いくらいである類の本を、どうにか一生懸命理解しようとしている「彼女(ホリー)」の様が伺えます。けれども、傍目には「読めてないんだろうな」と思わせる状況のようです。それを「上下が逆さまに――」とコミカルに活写することによって、ホリーのかわいらしさの一端に読者を触れさせています。

二人はまるでシャム双生児みたいに一体のものとして映った。
(同上 92ページ)

風船はしぼんで年老いた雌牛の乳首のようになっていた。
(同上 98ページ)

点字でも読むみたいに、名刺に浮き彫り印刷された彼女の名前を指でそろそろとなぞっていた。
(同上 103ページ)

三つ連続して引きましたが、このあたりは現代においてはやや蔑視的な表現として顔をしかめる方もいることでしょう。そう思われる方は、ここでひとつ試してみてください。「シャム双生児」「年老いた雌牛の乳首」「点字でも読む」の、いま時分における代替案をひねり出すことを。どぎつい禁じ手の代わりは、そうはたやすく見つからないはずです。

「野生のものを好きになっては駄目よ、ベルさん」、とホリーは彼に忠告を与えた。「それがドクの犯した過ち。彼はいつも野生の生き物をうちに連れて帰るの。翼に傷を負った鷹。あるときには足を骨折した大きな山猫。でも野生の生き物に深い愛情を抱いたりしちゃいけない。心を注げば注ぐほど、相手は回復していくの。そしてすっかり元気になって、森の中に逃げ込んでしまう。あるいは木の上に上がるようになる。もっと高いところに止まるようになり、それから空に向けて飛び去ってしまう。そうなるのは目に見えているのよ、ベルさん。野生の生き物にいったん心を注いだら、あなたは空を見上げて人生を送ることになる
(同上 115-116ページ)

こちらはホリーが自身を「野生の生き物」として喩えた一節です。自分の生き方生き様来し方が、いかに身勝手であったかということを悪びれもなく伝えつつ、それでいて相手をどうにか言い含めることもできそうな科白となっています。これを聞いた「ベル」は「酔っぱらっているね」と一蹴するわけですが、それにもホリーは「ちっとばかり」と答えます。こうした一種のかわいらしさを抱き合わせで提示されることにより、読む側は猫などがもつ「ツレないけどかわいい」をホリーにも感じ、やや無理のある彼女の自己肯定すら呑んでしまうのかもしれません。

以上、Webの1ページに収めるには、全体でかなりの長文となりましたが、『ティファニーで朝食を』内の学ぶべき比喩表現を取り上げてみました。

Web検索などで引っかかり、ちょっとつまむつもりで本ページを読みはじめた方も、例に挙げた引用文のひとつふたつに目を通せば気が変わったでしょうか。尋常ならざるカポーティの技には圧倒されるばかりですが、こうしてひとつひとつを分解してみれば、私たちにも盗めそうな技術はいくつも見出せます。

『ティファニー』を未読の方は、ぜひ新潮社文庫版を手に取ってみてください。本作に限らず、併録されている『花盛りの家』や『クリスマスの思い出』にも、学ぶべきポイントは無数に見つけられるはずです。それらの半分でも身についたなら、あなたが以後書く小説は、一段も二段も高められ世に放たれることでしょう。