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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

「メメント・モリ」の境地

2017年03月24日 【作家になる】

創造性の到達するところ、それは――

「メメント・モリ」とはラテン語の警句。「死を忘れるな」という意味で、つまり、自分が命限りある存在であることを常に忘れず生きるように、と戒めているのです。ところが悲しいかな、そうと重々承知していても、賢く振る舞えるとは限らないのが人間です。さらに、そもそも「死を忘れるな!」と言われても、ねぇ……。「死」を経験したことがないのだから、覚えておくなどできない相談――なんて屁理屈をこねて、難しい問題を棚上げするのは凡人の常かもしれません。しかし本を書きたい、出版したいというあなたに限っては、そこで話を終わらせてはいけません。文学界には、最晩年になって見事な境地に達した偉人たちがいます。そこに見ることがきるのは、一種清冽な精神の高みです。偉大な先達である彼らは、ひとたび己の“死”に向き合うや、まるで未知の領域の扉を開いたかのように新たな相貌を見せたのでした。

希代の騎士が贈る、次代へのメッセージ

従者サンチョ・パンサを引き連れ、愛馬ロシナンテを駆って、風車に一世一代の闘いを挑んだ騎士ドン・キホーテ。17世紀初頭に刊行され、いまなお世界中で愛読されているこの名作『ドン・キホーテ』の作者は、ミゲル・デ・セルバンテス。その人生は、帝国スペインの栄光と凋落の歴史と軌を一にしています。オスマン帝国との戦いに従軍し左手の自由を失ったセルバンテスは戦士であり、ルネサンスが終焉を迎えたローマで人道主義に共鳴した思想家でもありました。「巌窟王」さながらの波乱万丈な生涯はまた、困窮のうちに幕を閉じたといわれています。ドストエフスキーは『ドン・キホーテ』を“悲壮な物語”と分析しましたが、むしろ頭のネジの外れた老騎士が脳裏に描く広大無辺な世界が見えてくるような、一種突き抜けた痛快さを感じる読者が多いのではないでしょうか。この騎士物語は前・後篇に分かれていて、有名な風車の一幕は前篇、後篇の刊行はセルバンテスの死の前年でした。

おお、令名赫赫たる作者よ! おお、幸運なドン・キホーテよ! おお、その名も高きドゥルシネーアよ! おお、機知に富んだ愛嬌者のサンチョ・パンサよ! そなたたちが一人ひとり、また皆いっしょになって、この世に生を受ける者たち共通の慰めとも喜びともなるために、無限の世紀を生きながらえますように!
(セルバンテス『ドン・キホーテ後篇』岩波書店/2001年)

ドン・キホーテの死の床で終焉を迎える後篇には祝福が込められています。悔いのない澄明な心から生まれた高らかなシンフォニーのごときそれは、セルバンテスが贈る次代への祝福でもあるでしょう。『ドン・キホーテ』は、騎士道精神が地に落ちたことの揶揄とも諧謔とも受け取られてきましたが、セルバンテスその人の像と思想が投影された“ラ・マンチャの男”こそ、狂った哀れななりそこない騎士などではなく、得体の知れない大きな敵に立ち向かうまさしく希代の騎士であったのだと想像されます。

人間を愛した書家が抱きつづけた「原点」

つまづいたっていいじゃないか
にんげんだもの
(相田みつを『にんげんだもの』文化出版局/1984年)

書家で詩人の相田みつをは、長い不遇の時代を経て詩集『にんげんだもの』でようやく世間に認知されました。書家で出発したみつをが、因習に縛られた書道界で葛藤しつづけた末のことでした。しかしその後も、圧倒的な大衆的人気とは裏腹に、みつをには苦悩があったものと想像されます。相変わらず書道界ではほとんど黙殺され、いっぽうの詩の世界でも酷評こそされ認められることはまずなかったからです。そんなみつをを支えたのは、弟妹を進学させるために働き、「足袋の穴は恥ずかしくない。その穴から太陽を見ていろ」と教え、若くして戦死したふたりの兄への思いであったかもしれません。また、義理人情を煩わしいとしながらも、自らが終生心に携えつづけた「人間への思慕」も力を与えてくれたことでしょう。

一とは原点、一とは自分、一とはこのわたしです。自分が人間としての原点に止まる、それが正。自分が人間としての原点を守る、それが正。自分が自分の原点に立ち帰る、それが正。
(『一生感動一生青春』文化出版局/1990年)

みつをの絶筆は、正月の辞として綴った文章からとった「一とは原点 一とはじぶん」であったといいます。「一」とは、彼が繰り返し表現してきたモティーフでもあります。この一事から知れるのは、創作に妥協せず、処世の術に惑わされず、不器用な書家・詩人は終生、自分の原点から目を逸らさなかったということです。

心優しい反逆の詩人の遺言

日本の近現代の詩人の名を挙げよと言われれば、「誰それ、誰それ……」と三人列挙するうちに誰もが口にするだろう「中原中也」。齢三十で夭折した彼の詩は、青春の苦悩と悲嘆に満ち、平易でありながら印象的な詩句表現が柔らかなリズムを刻んで詠いあげられています。その苦悩、悲嘆とはどのようなものだったのでしょう。思うに、中原中也という詩人はその生涯、なりたいものになれず、果たしたいことを果たせないという挫折感を抱きつづけて生きてきたのではないでしょうか。なりたいような詩人になれず、なりたいような父にも兄にも息子にも、なりたいような都会人にもなれず、故郷への凱旋も果たせなかった――。そうした無力感は、繊細かつイノセントな詩人の心をどれほど苛んだことか。中也が精神的にもっとも満ち足りていたのはおそらく、処女詩集も出版された結婚後の数年間ではなかったかと思われます。子ども好きの中也は、長男・文也が生まれると非常にかわいがり、自分も世間並みの親父になったなどと満更でもなく詠っています。しかし、平穏な日々は長くつづきません。2歳となった文也の突然の死が、中也の心を一瞬にして完全に打ち砕くのでした。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
(『春日狂騒』/『在りし日の歌 中原中也詩集』所収/角川書店/1997年)

愛息を失った悲しみののち、中也の心に何が起きたのか、それを正確に知ることは誰もできません。けれど、破滅的であったはずの詩人が、慟哭を沈めて『春日狂騒』を書き、おどけた調子さえ覘かせて、詩作の道に、そして故郷へ戻ろうとしたことは誰の眼にも明らかです。

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火を後に、
おまえはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。
(『中原中也全詩歌集』講談社/1991年)

結局、そのころからすでに自らも病に冒されていた中也が、生きて故郷の地を再び踏むことはありませんでした。絶筆となった四行詩は、原風景的な描写も何もないのに、故郷へと誘う優しい風が吹きぬけるかのようです。

「今日」という日を……

「メメント・モリ」としばしば並べられる言葉に、同じくラテン語の「カルペ・ディエム」があります。直訳すると「その日を摘め」。要は、「今日」という一日を大切に使うべきことを教えています。「命には限りがある」「今日という日を大切に」、いずれもが日本語でも耳に馴染みがある教えですが、言語を変え表現を変えて、同様の警句が世界各地で伝えられているのはなぜなのでしょう。それは人間が、想像できないものを考えようとしない頑迷さをもった生き物だからかもしれません。けれど、作家になる、小説家になると心に決めているあなたならば、そうした妥当的想像性をはるかに超えた想像力をもたなければなりません。セルバンテス、みつを、中也など、己の死に対峙した古今東西の先達が残したメッセージをしかと胸に刻むこと。二度と訪れない「今日一日」に向き合うこと。その上で、現実世界の見はるかす向こう側に想いを馳せることは、生きる上でも、作家や小説家になる上でも、じつに有意義な試みになるに違いありません。