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「詩」に還る詩人たち

2017年04月24日 【詩を書く】

詩とは、故郷か、自分自身か

詩人が文字どおり“食えない”筆稼業であることは昔から知られていますが、なぜか詩人志願者はあとを絶ちません。しかし何しろ“食えない”ので、皆生活のための別の手段をもつことになります。ある者は「売文家」のそしりに甘んじ散文や小説を書き、ある者は勤め人になり、また、二度と関わるものかと詩に三行半を突きつける者もいました。けれど、食えなくても三行半を突きつけても、彼らは詩人であることをやめません。詩心を抱きつづけ、折に触れ抒情を温め、己を取り戻すかのように絶えず「詩」に還っていくのです。詩を書く、詩人になるとは、いったいどういうことなのでしょう。彼らの生き方、詩との関わり方に目を向ければ、詩人になるための覚悟と姿勢が見えてくるようです。

詩との決別を宣言した“老”詩人の真情

「ふるさと」を恋い詠った室生犀星は、1910年、詩人として中央で名を成したいという野心を抱いて上京しました。この年、21歳。山あいの故郷に愛着しながら、そこに埋もれていくことの葛藤に苦しんで、その筆名の由来となった犀川のほとりで若い鬱屈を詠った末のことでした。

うつくしき川は流れたり
そのほとりに我は住みぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
(室生犀星『犀川』/『抒情小曲集・愛の詩集』所収/講談社/1995年)

小説家としても高い評価を受けている室生犀星が、初めて小説に手を染めたのは1919年。その十数年後、『詩よ君とお別れする』の一文を発表してついに詩との決別を宣言するのですが、その真意は「詩の要素には老いは光らない。老いは詩をくさらせるだけ」と、詩作上の“老い”に諦念をにじませて身を引く形でした。しかし実際には、犀星が詩から離れることはなかったのです。

きのふいらしつてください。
昨日へのみちはご存じの筈です、
昨日の中でどうどう廻りなさいませ。
その突き当りに立つてゐらつしやい。
突き当りが開くまで立つてゐてください。
威張れるものなら威張つて立つてください。
(『昨日いらつして下さい』/『愛の詩集―室生犀星詩集』所収/角川書店/1999年)

犀星は小説を書いたことで、迷える詩人たちが右往左往するところとは別の場所から、詩と詩人を望むことができたのかもしれません。友人萩原朔太郎が小説などくだらないと犀星を罵倒した一幕を見るように、詩人たちのあいだには、詩を至上の文学と信じ小説や作詞への転向を軽侮する傾向がなくもありませんでした。いっぽう、小説家としてその優れた筆の力を高めながら詩人でありつづけた犀星は、晩年、狭量さとはほど遠く、若い詩人たちを物心両面で支えたのです。最後の詩集に収められた『昨日いらつして下さい』。「愛の詩」の形をとったこの1篇は、もしかしたら、老いた詩人から若い世代へ贈る叱咤激励であったかもしれません。

使命と信仰に生きた国民的詩人

いまではとても信じられませんが、生前、宮沢賢治はほとんど無名でした。彼の死後、彼の才能を惜しむ詩人仲間がその詩業を世に出そうと尽力し、結果、人口に膾炙した詩人として名を刻むことになったのです。賢治の遺した1個のトランク。そのなかに仕舞われていた小さな手帳に『雨ニモマケズ』は書きつけてありました。『雨ニモマケズ』は、賢治の生前詩として発表されたことはありません。この一文を咀嚼するには、彼の後半生を紐解く必要があるでしょう。

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』/『宮沢賢治全集 第十二巻』所収/筑摩書房/1967年)

少年のころから鉱物採集に熱中していた宮沢賢治は、俳句や詩に馴染む以前に地質学に馴染んでいたといえるかもしれません。地質学の先には、故郷の痩せた土壌があり、農地学がありました。家族の意を汲んで自分の志望を諦めるようなおとなしい青年であった賢治でしたが、25歳のとき、親に逆らって稗貫郡立稗貫農学校(現・岩手県立花巻農業高等学校)教師となり、やがて農民になる決意を固めます。そして、粗食を貫き自らに重労働を課し、ついに発病して37年の生涯を閉じたのです。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
(『【新】校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇』所載/筑摩書房/1997年』)

『雨ニモマケズ』については、戦後、哲学者谷川徹三と詩人の中村稔のあいだに論争がもち上がりました。谷川の高評価に対し、中村は「書き落とした過失」に過ぎない作品と否定的姿勢を示したのです。評論という仕事の難しさを感じるところですが、そもそも『雨ニモマケズ』に詩的評価を論ずることはいささか的外れの気がしないでもありません。賢治の手帳には、『雨ニモマケズ』と隣り合わせて南無妙法蓮華経の題目が記されていました。法華経を深く信仰していた賢治。『雨ニモマケズ』とは、農民のために尽くし詩人でありつづけた彼の思いの丈を込めた、祈りの言葉ではなかったでしょうか。

生き方を模索するなか「詩」が育つ

詩人として名を上げるために家出しパリを目指した早熟の天才、アルチュール・ランボー。20代で詩を捨て、エチオピアに渡り武器商人となって成功したランボーの生き方こそは、まさしく彼の詩そのもののようです。思うに“詩”とは、文学・創作という枠を超えた、詩人の血であり、祈りであり、その内に育ててきた言霊の宿命的な発露なのかもしれません。とすれば、詩を書く人、詩人になりたいと志す人にひとつ大事なのは、創作に関わる部分でも生活上の意味でもいい、まず、生き方を考え実践することではないでしょか。その道の向こうに、あるいは、一歩一歩踏みしめて進んでいくなかに、詩魂を宿した真実の言葉がきっと見出されてくるはずです。

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