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名文とは“明らかに伝わる”ものなり

2017年05月15日 【小説を書く】

名文の“明快な美”に潜む文章奥義

小説家のなかには、美文家・名文家と呼ばれる人が少なからずいます。小説作中における美文とは、字句の並びも響きも美しく、情感豊かで、流麗で、要するに芳しい香気を醸し出す“文章の名品”であるわけです。もちろん、そのような文章を読み味わうことは貴重な経験です。ただ、こうした文章は真似ようにも真似ることは難しく、学ぼうとすれば迷宮をさまよう事態にもなりかねません。それこそは、備えなく文章修業に臨む者が陥りがちな落とし穴といえるでしょう。

もとより「名品」の定義はさまざまです。美しさ、豪華さ、精緻さ、芸術性――。特に文章においては、ここに“明快さ”を加えることができるでしょうか。よくわからない装飾が施された抽象的な造形物が「名品」と呼べるかというと、ほぼそんなことはありません。逆に“明快さ”であれば、美しさや名品のスペシャリティを合わせもつことは可能なはずです。

名曲の旋律を思わせる優美にして明快な文章

著書『文章読本』で「文章上達のためには名文に接し親しむことしか道はない」と説いたのは作家・文芸評論家の丸谷才一。その丸谷が当代きっての名文家として挙げたひとりに吉田秀和がいます。1913年生まれ、母の影響で幼いころから音楽に親しんだ吉田は、クラシック音楽評論という分野を切り開いたパイオニアと呼べる存在です。彼には、クラシックファンのあいだではバイブル化している音楽評論が少なくありませんが、その文章は明快でありながら、西洋の古典音楽を語るにふさわしい「気品」と「かろみ」を兼ね備えています。

藝術的見地からも、それを実行する技術的な観点からも、全体から細部にいたるまで徹底的に考えつめ、とことんまで追及し尽くし、そうして論理的に首尾一貫したものにまで練り上げ、これでよいという究極的なところに達して初めて、彼はその作品を公開の席で演奏するのに同意する。
(『世界のピアニスト 吉田秀和コレクション』筑摩書房/2008年)

とあるピアニストの演奏について語る、門外漢さえその道に導きいれるような強い誘引力を発する文章。どこが名文なのかと考えるより前に、心に焼きつけられるその説得力は、吉田の鋭敏な音楽的感性と間然するところのない理論の筋道があればこそです。実際そのような文章は、ときに読み手にとって思いもよらないほど大きな力をもつことがあります。もしもある本の一文が、読む者に新たな世界を拓いてみせてくれるとしたら、それはもはや運命的な一文と呼べるのではないでしょうか。

なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか? 美しくなければならないのか? なぜならば、これが音楽だからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。
(『永遠の故郷―夜』集英社/2008年)

音楽という形のないものが、文章によって「目に見えるもの」とされていくような、優美な旋律を思わせる筆致。一方で、スタッカートというべきか、チャイコフスキーは「一生聞かなくとも、あんまり困ることはないだろう」(『名曲三〇〇選』筑摩書房/2009年)などと言われると、なにが「なるほどなぁ」なのかはわからないが「なるほどなぁ」と思わず膝を打ってしまう、歯切れのよい吉田節にも注目しておきたいところです。

明治生まれのコスモポリタンが繰り出す「達意」

『文章読本』のなかで、丸谷が「達意」の文章として取り上げたのは、西洋史家・思想家の林達夫です。明治中期に生まれ、父が外交官だったことから幼少期をアメリカで送り、その後帰国して預けられたのは福井の親戚の家でした。当時の世にあって地方での暮らしを経験したことで、林は自分の特異な背景に否が応でも自覚的にならざるを得なかったでしょう。しかしそのことが、自由精神横溢する彼のユニークな知的風土を創り上げる一因になったとも考えられます。達意と評される文章も、あるいはそんな生い立ちが土壌となって生まれてきたのかもしれません。

アマチュアはアマチュアらしくなるべく自分の経験を地道に述べるべきだ。専門家のように完備した広汎な知識、あらゆる場合に適用し得る概括を彼は目指すことは出来ないし、また誰もそれを要求すまい。(中略)しかし原則的に言うならば、アマチュアが物を書く場合は、専門家の一般的、抽象的、概括的、平面的なのに対して、殊別的、具体的、個性的であるのがその特色とならねばならぬであろう。
(『アマチュアの領域』『林達夫コレクション2―文芸復興』所収/平凡社/2000年)

「達意」とは、言わんとすることを相手が充分に理解できるよう表現すること。したがって、必ずしも達意の文=名文というわけではありません。しかし林達夫の文章には、“理解ができる”を超えて“考えさせる”域に読み手を連れていくような、的を射抜く鋭さ、力強さがあります。いくつもの専門分野にまたがる広汎な知識をもち、実は百科事典の編集責任者でもあった林達夫。その彼が余計な修飾を捨てて綴る文章こそは、面目躍如、「達意」の最たるもの、というところでしょう。

“名文感知力”を磨くことこそ第一の文章修業

名文であるか否かは何によって分れるのか。有名なのが名文か。さうではない。君が読んで感心すればそれが名文である。たとへどのやうに世評が高く、文学史で褒められてゐようと、教科書に載つてゐようと、君が詰らぬと思ったものは駄文にすぎない。逆に、誰ひとり褒めない文章、世間から忘れられてひっそり埋れてゐる文章でも、さらにまた、いま配達されたばかりの新聞の論説でも、君が敬服し陶酔すれば、それはたちまち名文となる。君自身の名文となる。君の魂とのあひだにそれだけの密接な関係を持つものでない限り、言葉のあやつり方の師、文章の規範、エネルギーの源泉となり得ないのはむしろ当然の話ではないか。
(丸谷才一『文章読本』中央公論社/1995年)

文章作法の手ほどきをしながら、丸谷才一は、名文か否かを決めるのは読み手自身、と明言します。が、この言葉を恣意的に読解してはいけません。丸谷は、名文かどうかは好きに決めていいんだよ……と、突然ものわかりのいい好々爺然としてハードルを下げたわけではありません。肩書きや世評に惑わされずに、文章を見極める目をもて――と言っているのです。

作家になりたい、本を書きたいと思うならば、文章の巧拙を知らなければはじまりません。名文に接して、優れた文章とはどのようなものか、文章の明快さとは何かを感得することで、おのずと文章力は磨かれるはずです。読むことは書くことに通ず、名文に触れることは名文に近づくこと――そのことを忘れず、感性をはばたかせ本の世界を逍遥して、ぜひあなた自身の「名文」を見つけ出してみてください。

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