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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

「ダンディズム」貫く文章の魅力を探る

2017年05月23日 【作家になる】

「ダンディー」を「スノッブ」の同義語と思うなかれ

「ダンディズム」とは、こだわり抜いたスタイルをあくまで無頓着に貫く精神のこと。……というと、外見ばかり取り繕った「スノビズム」と同類のように聞こえますが、まるで違います。しかし今どきは「ダンディズム」と意味を引けば「おしゃれ精神」「伊達気質」などと解説され、確かにスノッブと何ら変わらない扱いもあって、それでは軽い、軽すぎる! と異を唱えたいくらいです。実際、18世紀に初めて“主義”としてそのスタイルが認識されたダンディズムは、時代を経るうちに表面的な浅薄さからはいよいよ遠く、水も漏らさぬ精神主義としてストイックに引き締められ厳格さを増していったのです。すなわち、ダンディズムとは骨の髄まで沁み込んだおのれのスタイルを貫く“生き方”。そんな筋金入りの洒落者精神を終生もちつづけた男たちの文章の魅力とは、どのようなものなのでしょうか。

比類なきダンディーな文学者は名だたる御曹司

周囲に元勲や華族がひしめき、政治家・吉田茂の長男として生まれた吉田健一は、文字通りの御曹司として常人離れした少年期を送りました。それゆえ卵の割り方を知らないというような伝説も残しましたが、他方、戦後には家が没落したわけではないのにボロ靴を履いて友人宅を渡り歩いたりする生活も送りました。吉田自身は住処やカネのあるなしは特に意に介さず、つまり人の世話になって平然たるものでしたが、要は時代とか交際範囲とか手近な環境に身を任せていただけのことだったのでしょう。健一の友人で文芸評論家の河上徹太郎は、茂・健一親子は別に不仲ではなく、名家の御曹司だろうが何だろうが茂には健一を養う気がなく、健一には親の脛をかじる気がなかっただけ、と語っています。ともかく、この戦後の貧乏時代を始点に吉田健一は作家として世に出、名品と謳われた随筆や数多の評論執筆、翻訳に取り組むなかで、その磨き抜かれたダンディズムは伝説化していくことになります。

読んでもつまらないのは、率直に言って、文字通りにつまらなくて心が楽しまないからである。高級ということになっている作品は書いた人間の苦労を見せ付けられるばかりで、興味本位に書かれた筈のものは面白くも何ともない。何れにも、言葉で読むものを魅惑するという文学の根本条件が欠けていて、だから文学ではないのである。所が、同じ定義に従えば、興味本位に書かれたものが面白ければ、それが文学作品であることを疑う人間の方がどうかしているので、外国文学なら探偵小説でも時間がたつのを忘れるのが幾らでもあり、読んでいて勇気が出て来る。
(吉田健一『東西文学論・日本の現代文学』講談社/1995年)

詩人のギョーム・アポリネールの句読点を排した独特の詩文体は有名ですが、文学者・作家として文章を書くことに思い切り遊び、こだわり抜いた吉田健一も、句読点が区切りの符号という考えから悠々と脱し、文章そのものが欲する、とするところだけに自由に句読点を置く文体を操りました。その文章は、はじめこそ少々面食らいますが、そっと文字を追っていくと、いつしか彼の芳醇な内的世界を味わわせてくれるのでした。

この頃はロンドンを飛行機で朝立つと翌日の晩には東京の町を歩いていられる。実際に飛行機が飛んでいる時間はロンドンを朝の何時に立って東京に翌日の何時に着いたということで計算しても地球が東京の方からロンドンに向って廻転していて一時間である筈のものが刻々に縮められて行くから解らないが要するに一日を飛行機の中で過すということはその一日の意味に多少の幅を持たせさえすれば言える。
(吉田健一『旅の時間』講談社/2006年)

政治家の息子だからと政治家を目指そうなどとはさらさら思わず、戦中戦後の社会の混乱に動じることもなく、吉田健一は英文学者として約20年の活動期間に全集30巻にものぼる仕事を完成させます。戦後吉田は、英語をもてはやす風潮をばかばかしく思いつつ(もちろん彼自身は英語の達人なのですが)、アメリカの文化や政治動向に右往左往する昭和日本をただ黙って見るという態度を取りつづけました。そして、旅をし、酒を飲み、食を味わい、言葉と文学の果てしない世界を遊行(ゆぎょう)したのです。

「プリンシプル」を信条とした戦後の陰の立役者

「韋駄天お正」と呼ばれたはねっかえりの元華族令嬢、随筆家の白洲正子の夫・白洲次郎は、一般には長らく知られざる存在でした。その彼が、現在のように表舞台の人物となったのは、死後数年を経た1990年ごろから評伝が出はじめ、某局でスペシャルドラマが放映されるに及んでその人物像が脚光を浴びるようになってからでした。白洲次郎とはどんな男だったのか。中学同級の小説家・今日出海は「育ちのいい野蛮人」と呼び、妻の正子が「許せないことは許さない男」と評した彼は、有事には一歩も引かず、平時には田舎に引っ込んで鍬を振るう、イギリス仕込みの極め付きダンディーでありました。

プリンシプルは何と訳してよいか知らない。「原則」とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。

将来の日本が生きて行くに大切なことは、全部なら一番いいのだが、なるべく多くの人が、日本の国の行き方ということを、国際的に非常に鋭敏になって考えて行くことだ。
(白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮社/2006年)

実業家、オピニオンリーダーといった曖昧な肩書付きで紹介されることの多い白洲次郎の表舞台での活躍は、戦後の数年に限られています。戦前に吉田茂の知己を得た次郎は、吉田に請われ外交役を引き受けたのでした。厄介な大役を承諾した理由は語られていませんが、白洲次郎唯一の著書を読むと、彼の内には憂国の念と未来への責任感の火が灯っていたことがわかります。日本国憲法改正を巡ってGHQと渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」として一目置かれた次郎。しかしその強烈な個性から、吉田など一部の大物政治家には重用されながらも、その他大勢の政治家や役人の目には必ずしも好漢とは映らなかった彼らしく、当時の八面六臂の活動については今も明らかにされているとはいえません。当の次郎は、役目が済んだと見るやとっとと政界から立ち去ってカントリー・ジェントルマンに戻り、終生を茅葺屋根の農家で過ごしました。京都に遊んだ数日後に83歳で大往生。「葬式無用 戒名不要」のたった2行の遺言は、その死生観を結晶させた見事な遺作のように思えます。風のように生きた明治生まれのダンディーは、風のように去っていったのです。

ダンディズムの神髄・サムライ精神に開眼すべし

吉田健一も白洲次郎もイギリスへ留学しましたが、彼らはいわばパイオニア。およそ100年もの昔、そもそもは伝統国の環境に身を浸してこそのダンディズムであったわけです。しかし現代にあっては、留学しなければダンディズムを身に付けられない、金がなければダンディーになれないというのは、テキサスに行かなければ馬には乗れないというような苦しい弁解同然です。ダンディズムとはあくまで自己のスタイルを貫くストイックな精神。ストイックはもとよりサムライ精神に通じるものがありますが、そうであれば、作家になりたい“日本人”のあなたにとって、日本の先達に学ぶことこそが王道といえるのではないでしょうか。ダンディズムに根差した文章の凛々しき色香は求めて得がたい魅力であるはず。先達の生き方とその文章から汲み取った品格と艶のエッセンスは、きっとあなたの作品を薫り高く際立たせる隠し味となってくれることでしょう。