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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

「プライバシー攻略」で物語が生きる!

2017年07月21日 【小説を書く】

「私小説」と「モデル小説」のはざまで

作家志望のあなたなら存じのとおり、小説というのは作者自身の実際の体験を題材に書かれることが多いものです。もともと日本文学には、作家の体験や見聞を材料として心境を描く「私小説」というジャンルがあります。「芸術の基礎は『私』にあり、私小説こそが文学の本道である」と主張したのは作家の久米正雄ですが、確かに名だたる文豪の作品を見てもわかるように、日本の文壇には私小説こそが純文学であるとする通念が長くありました。そうした流れから派生的に出現したのが、作者の身近な知人から著名人まで、実在する人物をモデルとして配した「モデル小説」です。ところがこの「モデル小説」を巡り、特に戦後になって、ある問題がしばしば世をにぎわすようになりました。小説のモデルにされたと主張する当該者による、プライバシー侵害・名誉毀損の訴訟事件です。

日本初・プライバシー侵害裁判の行方

1961年、日本で最初となるプライバシー侵害裁判が開かれます。被告は『宴のあと』の作者・三島由紀夫、原告は元外務大臣の有田八郎でした。小説『宴のあと』は、都知事候補の元外務大臣〈野口雄賢〉と、その後添えの元料亭女将〈福沢かづ〉のふたりを主人公に据えた、選挙戦と結婚生活の顛末を描いた海外評価も高い一作でした。が、有田は、その主人公ふたりはまさしく自分たち夫婦であるとして、プライバシーの侵害にあたる旨で提訴したのです。三島と出版社を相手取り、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めて争ったこの長期の裁判は、最終的に原告側の訴えをほぼ認める形で結審しています。

おしまいにかづはとうとう辛抱し切れなくなって、
「なぜあなたの口から知らせて下さいませんでしたの」
 と些かしつこい怨み言を言った。野口は電話のむこうで黙り、ものを引き摺るような間のわるげな含み笑いがまじって、不透明にこう言った。
「要するに、まあ、理由はない。面倒くさかっただけだな」
この返事はかづにはほとんど理解が行かなかった。「面倒臭い」。それは明らかに、老人の言葉だった。

かづは野口をも含めて三人の肌に、何だか水気の乏しい共通な感じを抱いた。それは永らく女に触れない肌と似たもので、永らく実際の権力に携わらずにいる男の肌だった。
(三島由紀夫『宴のあと』新潮社/1969年)

三島由紀夫は、『宴のあと』が有田八郎をモデルとした小説であることを認めましたが、主人公たちは自分の芸術上の意図により描写し創り上げた人物で、プライバシー侵害を指摘された箇所はすべて自分の創作であると主張しました。これに対し裁判所は、『宴のあと』が暴露小説でも実録小説でもないとその芸術性を認めた上で、しかし読者が小説の内容を事実であると受けとめる可能性は否定できないと結論しました。書かれたような行動や生活シーンが実際にあったのだろうか――というモデルに向けた読者の興味を無用に煽り、被告に苦痛を与えるものと判断し、プライバシーの侵害を認めたのでした。

このとき、判決の要件として挙げられたのは次の四つです。

  1. 私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること
  2. 一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること
  3. 一般の人々に未だ知られていない事柄であること
  4. このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと

つまり、たとえ作者の創作による芸術作品であっても、事実かもしれないと誤想される恐れがあり、そのことでモデルとされた人が精神的負担を負い、通常の生活を営めなくなる可能性がある内容なのだとすれば、「プライバシー侵害にあたる」というものです。これはのちの同様のケースに重要な指針を与える判例となりました。

ふたつのモデル小説裁判の判決から学ぶこと

もうひとつ、裁判に至ったモデル小説事件を挙げてみます。高橋治作『名もなき道を』を巡る裁判です。高橋の旧制高校時代の体験をもとにしたこの物語には、司法試験に20回落ち、奇行の果てに変死した主人公の妹夫婦――という設定の人物が登場するのですが、そのモデルとされた夫婦が、名誉毀損とプライバシー侵害で作家と出版社を提訴しました。
この事案で裁判所は、『名もなき道を』が『宴のあと』と同様に暴露小説ではない文芸作品であると認め、さらには、小説内の人物には創作的デフォルメが加えられていることから「実在する人物とは異なる人格である」と読者が認識できるとして、名誉毀損やプライバシー侵害にはあたらないと判決を下したのです。つまり『宴のあと』裁判とは出た目が違ったのです(のちの控訴審で和解が成立。作者側は実在人物と一切関わりのないフィクションであると作品に明示することを承知。)。

さて、このふたつの裁判が異なる判決に至った理由は、どこにあったと考えるべきでしょう。それは、上記した四つの要件を回避するための、創作上のデフォルメが充分に施されているか否かという点にあるといえそうです。モデル小説であるなら、たとえば

  • モデルとなった人物の行動として違和感がない
  • 性に関する事柄など不快に感じられるおそれのある生活シーンを無用に含まない

また、モデル小説でなくとも、実在人物にヒントを得て書かれた作品であるならば、当該者が名指しされかねないような設定や状況描写を避ける必要があります。

先述したように、文学には私小説というジャンルがあり、作家は自身の体験や見聞を部材として小説を創り上げてゆくわけですが、それらがプライバシー侵害を訴えられることはほぼありません。私小説は別名「心境小説」とも呼ばれ、一般的な読者であれば、それら小説に描かれた「心境」をこそ作品のエッセンスとして汲み取るものです。たとえ周辺素材は事実を下敷きにしていたとしも、成果物としての作品は、作家のフィルターを通した創作であるはず――という見識です。逆説的ではありますが、読者にそう感じさせることも小説家としての大切な心得であり、事実から適度な距離を置いて「心境」を表現するテクニックを備えることで、アマチュア作家の作品はある面確実なレベルアップを果たすともいえそうです。

「事実」を超えてこそ「創作」は輝く

谷崎潤一郎の『痴人の愛』、川端康成の『伊豆の踊子』、梶井基次郎の『檸檬』、太宰治の『富嶽百景』はみな私小説です。吉行淳之介は自らの女性関係を題材に『闇の祝祭』を著しました。ビートジェネレーションのカリスマ、ジャック・ケルアックは放浪体験を綴った自伝として『路上』を残しています。横田米軍基地での退廃生活を赤裸々に描いた村上龍『限りなく透明に近いブルー』は、当時の文壇に衝撃をもたらしました。作家たちはこれらの小説において、モデルとなった人物の実際の行動を再現したのではなく、作者に刻まれた「印象」を起点としてキャラクターを創作し、オリジナルの物語を織りなしていったのです。

当然ながら誰だって、裁判沙汰などに巻き込まれるのは御免なのです。作家、小説家であれば、当人にとっては純粋な文学と思われる作品に難癖をつけられたくはないでしょう。プライバシー侵害や名誉毀損といった問題は、小説の出来や本質とは無関係であるかもしれません。が、「個」がかつてないほど重んじられるこのご時世にあって、いまやますます無視できない執筆上の注意事項となっていることは確かです。実際、アマチュアの書き手の「執筆上のお悩み相談」でも、この種の問い合わせが最多、あるいはその次というくらいに多く見られます。あなたが小説家になりたいのであれば、大切に温め構想した物語に思わぬ瑕を負わせぬためにも、プライバシー問題の攻略を必須課題として創作に取り組んでみてください。それは小説を書く上での実りある訓練に相違ありません。感性を研ぎ澄ませ、明確な意図をもって創作デフォルメを施すなかから、いつかきっと思いがけないほどの光彩を放つ「フィクション」が生まれてくることでしょう。