HOME > 出版をお考えの方へ > 「本を書きたい」人が読むブログ > 童話創作の極意は“あの動物”にあり
「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

童話創作の極意は“あの動物”にあり

2017年08月03日 【絵本・童話を書く】

動物の“特質”から創作のヒントを探ろう

童話にはさまざまな動物が登場します。たとえば巷では、このところますます猫人気が加熱していますが、近年の童話でも猫は人気のキャラクターです。しかし昨日今日の巷間人気など何するものぞ、寓話やメルヘンの童話世界では、実は猫とは比較にならないほど活躍している動物がいます。それは、鳥。というわけで、「猫じゃないのかよ!」との突っ込みも多少覚悟の上で、今回は鳥にまつわる創作手法のなかに、童話制作の「極意」を探っていきたいと思います。

鳥が主要な役割を担っている童話といえば『鶴の恩返し』、『みにくいアヒルの子』、『舌切り雀』……など例には事欠きませんし、近年の児童向けアニメまで視野を広げるとまだまだタイトルが挙げられそうです。つまり、童話の主役はいまもむかしも、鳥。これ、テッパンだということです。ですが、なぜ鳥がかくも童話に登場するのでしょう? そもそも動物を描く上でおのずと意識されるのは、その“特質”です。物語においては、それぞれの動物の特質が、テーマやストーリー展開と関わりをもたせて描かれるのが基本です。では、童話で映えかつ効果をあげる鳥の、他の動物とは異なる特質とはいったいどのようなものなのでしょう?

“美しさ”と背中合わせの“醜さ”に要注目

鳥の特質というと、「色鮮やか」・「華やか」・「美しい」などがまずイメージされます。実際童話のなかにも、見る者を魅了する「美」の象徴的存在として鳥が描かれることは少なくありません。しかし美しい鳥というだけでは、主役として立つにはいささか不足があるようです。起伏、緩急、落差、陰陽といったコントラストに人は感興をそそられるものです。そう、“美しさ”に寓意を与えるのは、その対置に据えられる“醜さ”なのです。鳥は“美醜”の特質を合わせもち、また“醜”から“美”へと姿形が美的な変化を遂げる動物でもあります。そこにこそ、他の動物にはない稀有なキャラクター性が潜んでいるといえます。美醜のコントラスト、変化が見せるグラデーション、そうした単調ではない特質はおのずと物語性を帯びるものです。アンデルセンの『みにくいアヒルの子』や、イソップの『王さまになりたかったカラス』、宮沢賢治の『よだかの星』などが、こうした鳥の特質を扱った童話として挙げられます。

一たい僕は、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。僕の顔は、味噌をつけたようで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちていたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。
(宮沢賢治『よだかの星』/『新編 銀河鉄道の夜』所収/新潮社/1991年)

醜さゆえに皆から嫌われ、ついには死を選んだよだか。醜いと蔑まれたよだかは辛く孤独でしたが、しかし醜さゆえに絶望したのではありません。よだかを絶望させたのは、彼の住む世界の心ない仕打ち、残酷さであり、また自身が永らえるために、毎晩虫を殺して食べつづけなければならない――という生きる者の哀しき宿命でした。自分によってたくさんの虫が殺される、そして同じ「たか」という名であることを忌む鷹によって自分が殺される。そのあまりにあっけなく軽い命の巡り合わせに絶望したのです。この物語に内在しているは、作者宮沢賢治の宗教観にほかならないでしょう。

よだかは俄かにのろしのようにそらへとびあがりました。そらのなかほどへ来て、よだかはまるで鷲が熊を襲うときするように、ぶるっとからだをゆすって毛をさかだてました。(略)
よだかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。(略)
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 (同上)

星を目指して飛んだよだかは星になりました。その星が燐の火のように青く美しいとしたところに、賢治のよだかに対する憐れみと転生のカタルシスが読みとれます。このような宗教的・哲学的なテーマは、子どもが読む童話には相応しくないと思われますか? いいえ、むしろ童話を書く際、単に子どもが理解できるようにと、わかりやすいお話を作り上げるばかりでは、創作の可能性を狭めてしまいます。プラトンは「童話は乳母のするおとぎ話である」と定義しましたが、平易な表現形式であるからこそ、乳母たちが語り継いでいくような民話・伝承のエッセンスに通じる深遠なテーマや問いかけを、反復や刷り込みという手法によって伝えることができるのではないでしょうか。

“ちっぽけな存在”は物語のすぐれた狂言回し

鳥はしばしば卑小な存在のメタファーとしても物語世界に登場します。オスカー・ワイルドは童話『幸福な王子』でツバメを狂言回しとして採用しました。『幸福な王子』のあらましを書いておきますと――とある町に、一体の美しい王子の像が立っています。生前、幸福な生涯を送ったといわれる王子の像なのですが、実はこの像、王子の魂を宿しているのです。町の誰もこの秘密を知りません。シンボルとして立ち、心の眼で町を見守りつづける王子。その眼は、世の不幸な人々の姿を見ています。王子は嘆き悲しみ、ついには自分の体を飾る宝石と金箔とを一羽のツバメに託し、貧しい民のもとに届けさせることに――という自己犠牲と施しの物語です。ツバメは、ひとつまたひとつと王子の頼みを聞くうち、南へ渡る季節を逃してしまい、とうとう王子の足元で力尽きてしまいます。ツバメの死の衝撃は王子の鉛の心臓をも砕き、とうに宝石も箔も剥がれてみすぼらしい姿となり果てた王子の像は、ツバメの死骸とともに処分されてしまうことに。しかして終幕、この成り行きに目を留めた神が、ツバメと王子の心臓を天国に運ばせます。

「この町のなかで最高に尊い物を、二つ持って来なさい」神様が天使の一人に命じました。すると天使は、鉛の心臓と死んだ鳥を持って来ました。
「正しい選択だ」神様は言いました。「私の天国の庭で、この小さな鳥は永遠に歌い続けるだろう。私の黄金の街で、幸福の王子は私を讃え続けるだろう」
(Oscar Wilde『The Happy Prince』石波杏訳)

ツバメは永遠に歌い王子は神を崇めつづける――祝福のまぶしい光に満ちたその結末は、しかし「幸福」を表すというよりも、オスカー・ワイルドならではの皮肉、懐疑的思想を映すものと思えてなりません。

“飛ぶ”特質に、プラスアルファのアイデアを

そしてもちろん鳥には“飛ぶ”という特質があるわけですが、アマチュア作家は、ともすると物語での鳥の扱いが“飛ぶ”というその一点に集中しがちです。飛ぶことが人体には実現不能な憧れの特質であっても、鳥が飛ぶのは当たり前。「ミソサザイが空翔けて急場を知らせた」とか「海を越えて旅した」というだけの話では、「たろうくんは驚くべきことに毎日自分の足で歩いて幼稚園に通っている」と、人間が歩いたり走ったりする様子をことさらに強調するのと何ら変わりがありません。物語に深みや鋭さを与えるためには、“飛ぶ”という特質をより効果的に、独創的に扱う着想が求められるのです。

井伏鱒二の『屋根の上のサワン』は、傷ついた雁との出会いから別れまでの一幕に、人間のエゴと屈託を浮かび上がらせた短編であり、深い寓意を内包した詩的な物語です。主人公の「わたし」は雁を治療し、その羽を切っていつもそばに置いてかわいがります。サワンと名づけられたその雁は「わたし」になついて、親愛の通う生活は幸福そのもの、やすらぎの具現図のように見えます。ところが、秋の訪れたある夜、サワンに異変が起きます。

わたしは外に出て見ました。するとサワンは屋根のむねに出て、その長い首を空に高くさし伸べて、かれとしてはできるかぎり大きな声で鳴いていたのです。かれが首をさし伸ばしている方角の空には、夜ふけになって上る月のならわしとして、赤くよごれたいびつな月が出ていました。そうして、月の左手から右手の方向にむかって、夜空に高く三羽のがんが飛んでいるところでした。
(井伏鱒二『屋根の上のサワン』/『山椒魚』所収/新潮社/1949年)

月の昇る空を行く三羽の雁に、本能を刺激されて狂ったように鳴くサワンを井伏は次のように描写します。

「遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、十年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたときの有様」

このくだりはおおいに注目してよいところでしょう。羽を切られたサワンの本能は、まさしく自分が孤独な漂流者で、三羽の雁が飛んでいくところこそが自分の帰るべき故郷であると知ったのです。それからというもの、飛ぶことのできないサワンは屋根から空を行く仲間に悲痛な鳴き声で呼びかけるようになります。そしてついに「わたし」は、自分の孤独を慰めるためにサワンの孤独を生んでしまったと悟りますが、サワンとの別れを決意したその朝、一枚の胸毛を残してサワンの姿は消えていたのでした。サワンの行方は知れず、「わたし」は仲間たちに翼で抱えられて飛び去っていくさまを想像するのですが、その詩的な美しい情景に、作家の冷徹な眼は、愛の名目のなかにあるエゴイズムがもたらす無常の結末を捉えています。

物語は空を見あげるところからはじまる――と信じる

猫も犬も所詮は愛玩動物。そのDNAに太古の記憶が眠っているとしても、ジュラ紀から大空を翔けていた鳥とはそもそも役者としてのポテンシャルが違うのかもしれません。畢竟、鳥は多様な姿を見せて、童話のなかでさまざまな役割をこなす多才なアクターといえるでしょう。そんな鳥を物語に活かすためには、“特質”に着目することに加え、その“特質”を見たままイメージしたまま当たり前に扱ってはいけない、ということです。そのようにして、当たり前の鳥ではない鳥が創造されたとすれば、それはまぎれもなくあなただけのキャラクターであり、あなただけの物語が産声をあげたと考えてよいのではないでしょうか。童話作家になりたいあなた、ふと見あげれば空にはツバメやカラス、スズメの姿があります。空を仰ぎ鳥を見て想像をふくらませるところから、もしかするとすてきな童話の一幕が動きだすかもしれませんよ。