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全身全霊の推敲が無二の一作を生む

2023年02月13日 【作家になる】

才能の成果を生かすも殺すも「推敲」次第

「小説を書く」という営為は、多くの人にとって決して容易いものではないでしょう。400字詰原稿用紙にして100枚単位の文字量を書くなんていうのは、たいていの人にとっては大学の卒論くらいなもののはずですから、それが200枚、300枚でやっとこ1冊の本になると聞けば、その途方のなさにちょっとクラクラしてしまうのではないでしょうか。書き手のなかには自動書記かのごとく滔々とアイデアが湧いてスイスイと筆が進み、見る見るうちに一丁上がり! なんて芸当のできる才能に満ち満ちた人もいるかもしれません。けれど、驕れる者久しからず。自分の才能に胡坐をかいて努力を惜しんではなりません。そんな才能の成果を生かすも殺すも、実は「推敲」次第なのですから。

推敲って、間違いを直すことだろ、それくらい当然やってるさ──とアゴを上げた方がいたなら、それは激しく間違っています。ときどきそうした誤解があるようですが、誤記や文法の誤りを修正する作業は「校正」と呼ばれます。「推敲」とは、 書き上がった己の文章、作品をはたと睨み、ここを削ってあそこを足し……と繰り返し練って完成品として磨き上げていく、創作においては最終段階にして最重要の欠くべからざるプロセスのことをいいます。ですから、才能に任せて見る間にできあがった作品が、たとえ素晴らしい名作であるとしても、やはりそれはまだ原石の状態。さらなる推敲作業に励んで磨きをかけていくのが、書き手としてのあらまほしき創作態度です。推敲を経ずしては、作品が本来の輝かしい姿を現すことはまずないのです。

あの名作童話は“鬼の推敲”を経て形を現した

『風の又三郎』『よだかの星』『セロ弾きのゴーシュ』……数々の名作童話を遺した宮沢賢治という人は、天才の名に相応しい輝かしい才能のもち主でした。童話の美しくも深遠なファンタジー世界。画家としても、そして詩人としても、比類ない成果を後世に示しています。そして宮沢賢治という稀代の名クリエイターはまた、推敲の鬼でもありました。そう、まさに、鬼。そんな鬼になれる才覚こそが、天才を天才足らしめているといっても過言ではありません。

「おまえはいったい何を泣いているの。ちっとこっちをごらん。」今までたびたび聞こえたあの優しいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニははっと思って涙を払ってそっちを振り向きました。さっきまでカンパネルラの座っていた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人が優しく笑って大きな一冊の本を持っていました。

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』/『宮沢賢治全集7』収録/筑摩書房/1985年)

死者を運ぶ列車に乗ってジョバンニ少年が銀河を旅する物語。小説やアニメと多くの派生作品を生んだご存じ『銀河鉄道の夜』です。しかし、賢治の晩年に書かれたこの作品が実は未完であったことは、作品の広がり方と比してあまり知られていないかもしれません。妹トシの死を看取り、自分の健康の悪化をも感じはじめたころに執筆され、10年にも亘る月日を推敲に費やし、三度の改稿を経て4パターンもの原稿が残された『銀河鉄道の夜』。私たちのよく知る『銀河鉄道の夜』という童話は、賢治の死後、編集者によってまとめられたものなのです。 後日の調査研究によって「最終的」とみなされた最終稿をベースとしていますが、現在の形に至るまでにも『銀河鉄道の夜』は出版されており、筑摩書房版の全集にはそれ以前のバージョンが収録されています。その作品には「ちっとこっちをごらん」とジョバンニを導き考えさせるブルカロニ博士というメンター的キャラクターが登場するのですが、なんと第4次稿にこの博士の姿はありません。メンター的重要なキャラクターが消滅しているのですから、大胆といえば大胆な推敲といえましょう。そして、もし賢治がこの第4次稿以降も生きていたならば、さらなる推敲が加えられたことも十分に考えられます。そんな思いを馳せる「余白」を残している点においても、 『銀河鉄道の夜』は読み手を存分に楽しませてくれる作品といえましょう。

「推敲」とは自作にかける作家の深い思索の道のり

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指さしながら、みんなに問いをかけました。

(『新編 銀河鉄道の夜』/新潮社/1989年)

『銀河鉄道の夜』推敲の過程には、さらにふたつの大きな変更点が認められます。ひとつは冒頭の3章の挿入で、第4次稿に見られる、先生がジョバンニのクラスで天の川について問いかける教室のシーンと、つづくジョバンニが帰路活版所に立ち寄るシーン、家で母と会話するシーンは初期原稿にはありませんでした。つまり賢治のはじめの構想では、ジョバンニの日常的現実は重視されておらず、ほぼ幻想の物語であったことになります。ふたつ目は作品の根幹にも関わるもっと大きな変更です。最終的なバージョンでは、銀河鉄道に同乗していて途中で姿を消した親友のカムパネルラは、最後に事故死していたことがわかりますが、初期原稿ではカムパネルラの死はそこまでの詳細は明らかにされていないのです。すなわち、賢治の初期構想では、同級生からからかわれいじめられていた貧しいジョバンニと、裕福な家の子であるカムパネルラとの葛藤ある友情関係を重要に扱っていたのが、最終稿ではそれが「もっと大きな不思議」のなかに包摂されることになったと考えられるのです。このように、物語の根本にまで触れるような推敲を経て形づくられていった『銀河鉄道の夜』。妹の死への嘆きと自分の余命を思いながら臨んだ推敲の過程には、宮沢賢治という類い稀な作家の、限りない哲学的思索の道のりが付き従っているはずです。

“この一作は絶対無二の一作なり”

自身の死の10日前、宮沢賢治は花巻農学校の教え子であった柳原昌悦氏に宛て、最後の手紙とされる一通を送りました。

あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、 同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味わふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。

(昭和8年9月22日 柳原昌悦宛ての手紙)

死ぬまで自作を推敲しつづけながらも、自らの「慢」を悲歎した宮沢賢治。私たちはこれを戒めの言葉と受け止めるべきでしょうか。いいえ、そうではなく、創作・創造を志す者を励まし、より輝かしい道へと導く宝石のような言葉として受け止めることが、宮沢賢治という人の心にかなうのではないかと思います。全身全霊を込めた推敲のなかから、いつかきっと、あなたにとって“絶対無二の一作”が生まれてくるはず。それを信じられる者だけが、見晴るかす地平の向こうの大地に足をかけることができるのでしょう。「童話」というどこかホンワカしたイメージのジャンルにおいて、かくも己を厳しく追い込んだ宮沢賢治。おそらくはこの先も未来永劫、地上から銀河まで伸びる道にその名を留めつづけるに違いありません。

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