本を出版するなら──文芸社「出版」のこと、気軽にご相談ください。

0120-03-1148

通話無料(受付時間:平日 9:30〜18:30)

「本を書きたい」人が読むブログ

Blog

執筆・創作活動で「◯◯パ」思考はキケン

2026年10月22日 【作家になる】

「◯◯パ」を軽んじた態度とみなすのは早計

費用対効果を意味するコストパフォーマンス、略して「コスパ」から派生して、いまではさまざまな「◯◯パ」なる略語を日常的に耳にするようになりました。時間が「タイパ」なら、空間は空間対効果で「スペパ」、心の消耗に対しては「メンパ」といった具合です。投じた量に対して、どれだけの効果や価値を得られるか。そこには絶対的な基準があるというよりも、効果・結果を享受する側にとって、どれだけ「無駄をせずにすんだ、ラッキー」と感じられるかという評価のあり方といえるのかもしれません。「◯◯パ」喧しい昨今においては、その傾向にひと言もの申したくなりはするものの、コストパフォーマンスは元来秀でたアイテムに贈られる賛辞ですし、「スペパ」でいえば、狭小日本における古くからのさまざまな工夫──建造物や日用品に至るまで、極小の空間に多くを凝縮する──は、日本のアイデンティティとさえいえるかもしれません。

そんな「◯◯パ」の本質的な視点で見れば、「本」もまたこれほどおトクな品物はないように思われます。何しろ作家が何か月、ときには何年もの時間をかけ、知識や質の高い思考、技術をこれでもかと注ぎ込んだ結晶の品が、数百円から数千円といった価格で手に入れられるのですから。しかも、本というものは好みに合わない、いまひとつだった……といった読書体験もときにはあるにせよ、ひとたび気に入れば何度も追体験して感動を味わうことができ、ひょっとすると新たな発見や思索へと導いてさえくれるのです。そのうえ書店という“本の専門店”はもちろんのこと、コンビニや駅、ネット通販などで購入可能なのですから、これ以上のコスパを探そうっていったってなかなかありはしません。私たちは「本」とそれを形づくってきた人間の歴史や文化、産業に、もっともっと感謝すべきですね。作家になりたいと書き手を目指す人ならなおのこと。知識と想像の世界を限りなく拓いてくれる読書体験は、数多くもてばもつほど、本を書くための豊かな土壌が養われるはずです。

立場変われば考え方も異なる「パ」

さて、このように、読者(消費者)にとってはいいことづくめで極めて「パ」が秀でている本というアイテムですが、では、書き手(生産者)の側に立つとどうなるでしょう? 先ほど「作家が何か月、ときには何年もの時間をかけ──」と書きました。そう、それこそ180度話が異なってきて、そこに「パ」はないのかい?? とゾクッとしますよね。アマチュアといえど、いくらでも時間はあるさと悠長にかまえてはいられないでしょう。もしあなたがプロを目指して日夜努力していればなおのこと。公募されている新人賞にはそもそも「締切」がつきものですし、いい年齢になれば学生時代の友人との人生航路の違いもチラつきはじめリミットを意識もするでしょう。極力、最短のルートで、最速の方法で、狙った地点に辿り着きたいというのは人間が生物としてもつ本能なのかもしれません。

そう仮定すれば、その本能と一般常識(「パ」がよくて何が悪い)を胸に、次から次へと浮かび上がるアイデアに駆り立てられるような日は、思いがけず筆がのってみるみる一丁あがり! なんてこともあるかもしれません。でもそんなとき、賢明な方であればきっと「遠まわりが一番の近道」に類する言葉が古来無数にあることも頭によぎるはずです。トントンと短時間で仕上がったとて、その作品の質がよいか悪いかはまったく別。だから「3日で書けたゾ!」と悦に入り、その後も次だ次だと量産体制をとるのは大変危険なのです。少し慎重になり、推敲し、誤字脱字のチェックを入れ、ふと「勢いに任せて書いたはいいが、本当におもしろいのかこれ……?」と気づいてしまったときにはときすでに遅し。狙っていた文学賞への年イチの応募の機会を逸したり、生煮えの原稿を投函した日には、すっかりメンタル不調に陥りかねません。もちろん創作活動においても神がかる瞬間「憑依」というのはつきものですから、3日で書いた作品が必ずしも低品質とはいえません。しかし「パ」を意識して楽して早く効率よく書こうと考えることが、作家を神がからせるわけではないのです。そう、心を鬼にして言いましょう。執筆・創作活動において「パ」はないのです。考えることすらあってはならないのです。

畢生の大作に費やされる途方もない時間

プロの作家にしても、遅筆の人もいれば速筆の人もいます。けれどそれは、あくまで作家それぞれの性格やスタイルによるもので、コスパ・タイパを考えてのことではないのは自明です。無論、徒に時間ばかりをかければよいということではありませんが(そこが難しい)、自作の最上の仕上がりを目指すこと以外の目的は一切なく、どれほど時間や労力がかかろうとも、そのときの自分にでき得る精一杯の心血を注がなければなりません。それこそ芸術の域の仕事であり、あるとすれば連載の締切という制約のみ、端からパフォーマンスなどという意識も概念も存在しないのかもしれません。

だからなのでしょう。長年にわたって同じ作品を書きつづけ、その死まで完成に至らなかったという未完の絶筆を遺した作家は少なくありません。たとえば、マルセル・プルーストは、無為な時間として流れていったかのような己の生涯を凝視し、時代背景とともに表現した『失われた時を求めて』を、1908年ごろから1922年に51歳で没するまで書きつづけました。著者亡きあと未公刊部分の整理を経て、最後の第7篇が刊行されたのは1927年のことでした。また、埴谷雄高の一大思弁小説『死霊(しれい)』は戦後の1945年から執筆開始、没年の1997年に至っても完成を見ませんでした。とはいえやはり最初からそこを目指そうというのはあまりに酷な話。夢がありません。これから作家になろうと奮闘する人が生涯かけて一作に臨むのは、それはそれで意義深い姿勢ではあっても、作家ならぬまま……という公算も大きいですし、それどころかまったく別の怪物になる可能性も否定できません。まあ、身の振り方、作家のなり方には幾分の注意も必要ということです。

短編を書きつづけた“あの作家”に学ぶ執筆の姿勢

長大な時間をかけた一作というとつい大河的な長編小説などを思い浮かべますが、もとより時間に囚われず心血を注ぐべき執筆のあり方に、長編も短編も関係ないはずです。そこでご登場いただくのは、芥川龍之介大先生。さて、芥川龍之介には『奉教人の死』(1918年)という切支丹(キリシタン)小説があります。原稿用紙にして30枚に満たない短編です。

その女の一生は、この外に何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござろうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換え難い、刹那の感動に極るものじや。暗夜の海にも譬えようず煩悩心の空に一波をあげて、未出ぬ月の光を、水沫の中に捕えてこそ、生きて甲斐ある命とも申そうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。

(芥川龍之介『奉教人の死』/新潮社/1968年)

物語は、教会に入り女性である身を隠しつづけた「ろおれんぞ」が、いわれのない告発に身の潔白を明かすことなく、自らの命を犠牲にして偽りの告発をした者の子を救う──というもの。ずばり「殉教」をテーマにした本作ですが、芥川自身は、殉教を無条件に肯定していたわけではありません。「クリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或興味を感じていた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のように病的な興味を与えた」(『西方の人』)と評しているように、むしろ理解しがたい行為として遠目に見ていた様子が思えます。『奉教人の死』においても、「ろおれんぞ」の行為をまこと尊いものとして推奨するというよりも、上掲文に見るとおり、本作を通じて芥川は“刹那の感動”をこそ描いたと察せられます。キリスト教徒としての信仰からというより「芸術的にクリスト教を──殊にカトリック教を愛していた」(同上)という芥川は、果たしてこの短編にどれほどの時間を費やしたことでしょうか。

初期の芥川作品には“切支丹物(キリシタンもの)”と呼ばれる一連の作品群があり、『奉教人の死』は『きりしとほろ上人伝』と並んで高い評価を受けています。文字量としてはわずかなごく短い作品ではありますが、もとより『奉教人の死』には、種本となる資料論争が巻き起こったほどですから、作品を書くにあたり、芥川が資料の渉猟や思索に山ほどの時間と労力を注いだことが想像されます。翌年に発表された『きりしとほろ上人伝』につづく作品であることからも、芥川が『奉教人の死』を重要な位置づけと考えていたことも推して知れます。キリスト教を客観的立場から見つめ、殉教という題材を深く考察し、芸術至上主義に則り作品として結実させる。その過程に費やされた時間は、短編だからといって必ずしも短いとは限りません。そして、それはまた、ほとんどが短編であった芥川作品について考えるうえでも、忘れてはならないことではないでしょう。

いざ進め「パ」なき道を──

一消費者にとって「◯◯パ」のよいことは何よりうれしく、おトク気分と合わせ倍量旨味を味わえます。けれど、小説を書く、詩を書くと文筆業を志す者は、まず何よりも作家という「生産者」の立場に身を置くことを忘れるわけにはいきません。誰にだって生活というものがあります。時間に追われ執筆を急がねばならない状況もあるでしょう。調べものだってできるだけ早く済ませたいという衝動に駆られることもあるでしょう。AIを使えばいとも簡単に“それらしきもの”が整います。なかば自動で仕上がった作品を、「これは傑作だ」と読者や世の中が判断する日はもうまもなくやってくることでしょう。そうしたなかで、書き手当人にしかできないことがあります。それは「充分に力を尽くしたか?」と自身に問いかけること。作家として生きるためにはまず、この自身への問いかけに深く頷けることが重要なのではないでしょうか。作家になるということは何かしらの食い扶持を探す手探りの行為ではありません。真の作家になるための道のり、創作・執筆に「コスパ」という文字はなし──そう胸に刻むのが、実りある正しき第一歩のように思えます。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

こちらのコンテンツもおすすめです

同じジャンルの記事

最新記事

「本を書きたい」人が読むブログ トップへ

PAGE TOP