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岩手県花巻市といえば、トップオブトップに昇りつめたメジャーリーガー大谷翔平選手や、菊池雄星選手の出身校「花巻東高校」の建つ地として話題にのぼることも多く、長らくこの地を代表する存在であった宮澤賢治は、レジェンド格であるがゆえに幾分奥仕舞いされている感もあります。 そんな賢治と同じように、日常会話にはあまり登場しないけれど、花巻を語るうえで欠かせないエレメントがもうひとつ。というと「わんこそば」を思い浮かべた方もいることでしょう。それはもちろん正解です。ですがここは「本を書きたい人が読むブログ」。賢治と並べてわんこを語ることはしません。正解は「遠野」への玄関口として、民話世界の息吹をひっそりと伝える土地であること。遠野? 隣の市やんけ! とズッコケた方もいることでしょう。が、一見すると“ただの隣り合わせの自治体”というこの関係、実は日本民俗学の誕生における「運命的な出会いの場所」としての深い結びつきがあるのです。その中心にいるのが、晩年の賢治と交友のあった佐々木喜善。民俗学者の柳田國男が『遠野物語』を編纂するにあたり、土地に伝わる物語の聞き取り取材をしたその人なのです。ご存じのように『遠野物語』は日本における民俗学の先駆となりました。賢治─佐々木─柳田という口承文学による知の連なりを考えるとき、花巻と遠野は地理的な距離よりもいっそう密な関係を見せるのです。
民俗学。作家を志す者にしても、聞き覚えはあるけれどどうにも地味な印象の学問ジャンル、というところではないでしょうか。しかし侮るなかれ。民俗学ひいては民話には、人間社会の秘密を探る重要な鍵があります。古くから世界各地には、土地に伝わる民話を熱心に収集する人たちがいました。古代ギリシャのアイソーポス(イソップ)、グリム兄弟にアンドルー・ラング。日本では南方熊楠、柳田國男。時代も国も異なる彼らが、なぜ同じように民話や伝説を際限なく集めたのかといえば、酔狂なヒマ人であったから……では断じてありません。「民話」という世界各地で見出された伝承物語──そこには、人一倍どころか人の十倍かそれ以上もの賢さ、鋭さ、洞察力、想像力を具えた彼らの興味を惹いてやまない「何か」があったからに違いないのです。そして、『遠野物語』を編纂した柳田國男についていえば、民話収集を通して多大な関心を寄せたもののひとつに、「山人(やもうど・やまびと)」がありました。
『遠野物語』に数々の山の民の物語を収めた柳田國男は、十数年後、のちに『遠野物語』と並んで代表作と呼ばれるようになる作品を発表しています。山という世界に埋もれるように生きる人々、仙人や山姥といった伝説について考察した『山の人生』です。
サンカ(注:かつて日本にいたとされる放浪の民)と称する者の生活については、永い間にいろいろな話を聴いている。我々平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにしておらぬ点、次には定まった場処に家のないという点であるかと思う。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたようであるが、その多くは話としても我々には伝わっておらぬ。
冬になると暖かい海辺の砂浜などに出てくるのから察すると、彼らの夏の住居は山の中らしい。伊豆へは奥州から、遠州へは信濃から、伊勢の海岸へは飛騨の奥から、寒い季節にばかり出てくるということも聴いたが、サンカの社会には特別の交通路があって、渓(たに)の中腹や林の片端、堤の外などの人に逢わぬところを縫うている故に、移動の跡が明らかでないのである。
しかし柳田國男はなぜそれほどに「山人」に興味を抱いたのでしょう? なぜそこまで入念に調べ考察したのでしょう? この理由を探るのには、もうひとまわり外側から柳田を考察する必要があります。柳田國男研究でも知られる哲学者・文芸評論家、柄谷行人の言葉をいくつか引いてみましょう。
柳田国男は「山人」の研究を放棄し、「常民」=定住農民を中心とした「民俗学」の探求に向かった。柳田は長らくそのように批判されてきた。本書は、その「通説」を鮮やかに覆し、柳田が「山人」「一国民俗学」「固有信仰」など、対象を変えながらも、一貫して国家と資本を乗り越える社会変革の可能性を探求していたことを示す。
『山の人生』に述べられているとおり、柳田は「山人」とは山地に定住する人ではなく移動する民族と考えたのですが、確証は得られませんでした。そもそも「山人」こそは日本人のルーツではないかとの仮説を抱いて、『遠野物語』に山の民の話を収録し、それでも飽き足らず『山の人生』を著した柳田でしたが、決定的な結論を提示するには至りませんでした。そうした柳田の研究の全容と、また柳田という人物そのものを含めてさらなる論考を押し進めたのが、柄谷行人の『遊動論 柳田国男と山人』になります。
新聞のインタビューに応えて柄谷は、柳田が山人の存在を証明しようと奔走したこと、ついに見つからず山人説は否定されたものの、その存在追究をやめることはなかったと語っています。そして柳田のいう「山人」が、自身の研究する「原遊動民」に通じていくものと考えたのでした。
いまの人は慣れているから逆に思っているかもしれませんが、定住社会はストレスが多く、いやなものなんですよ。原遊動民の世界は、自由かつ平等な社会です。しかし、それは定住後に、抑圧され忘却されています。
「定住社会はストレスが多く、いやなもの」の言葉にはピンと来る方も少なくないのではないでしょうか。いまでこそ職場を転々とする方も増え、ノマドワーカーという言葉も一般化していますが、それでも「住」に関していえば、少なくとも現代の日本社会では「定住」が当たり前の生活スタイルであり、「定住民」という言葉などもはや影も形もありません。しかし、そもそも“当たり前”とはなんなのでしょうか? それが正解であるとか、進化の形を示すとか、そういうことではまったくないはずです。すべからく国民は住民基本台帳に登録され……という国家運営戦略だってあとからついてきたもの。現代の定住スタイルは、日本列島のどのエリアでも手近に生活資源がそろいやすい──という独特の環境がもたらした合理的な結果、ある意味ただの行き着いた結果と考えてもいいのかもしれません。もちろん一生活者の立場であれば、バランスのいい暮らしは理想的で、その環境そのものに無自覚でもかまわないでしょう。しかし作家となるとそうはいきません。当たり前が当たり前となった所以、また当たり前というマジョリティの台頭で“消えていった側”の系譜にもおのずと興味を抱くのが作家の性(さが)というもの。短絡的な表現を用いるとすれば、現代ではもはや幻となったニホンオオカミに、そこはかとないロマンを感じるか否かが、作家性の有無を計るうえでのテスターになるかもしれません。「定住」が常識のこの社会で、山に住むとか高台に住むとか海辺に住むとか、住む場所によって人間を分けるとしたらそれぞれどういう民なのか。定住社会だから人間は健やかで幸福な暮らしを営めるのか、それ以外の選択肢があるとすれば? 作家になる者とはそうした“当たり前の外側”への夢想をヒントに筆を執るのでしょう。
社会が年月を重ねていくなかで、目立たず、気に留める者もいないままマイノリティ側に弾かれた風土・風習ひいては世界は、二度と還ってくることはなく、やがては甦らせるよすがさえ失われてしまうのかもしれません。そのよすがを現代に伝えるたったひとつの手法が「民話」だとしたら──。
民話を収集した先人たち。それはヒマだからでも、もの好きだからでもありません。DNAを用いてニホンオオカミを甦らせようという生物学者の研究意欲とも違います。そこにあるのは鋭敏な学術的な直観と、人間の心の奥底を覗こうとする文学的視線。消失した系譜から現在の私たちに至るまで通底する「何か」を探そうとする旅人の視線なのです。民話が伝える古の物語には、人間社会の秘密を解く鍵──そして人間という存在そのものの謎が潜んでいるのかもしれないのです。
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