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「デジャヴ」の向こう側

2025年07月18日 【作家になる】

「デジャヴ」の謎

映画にもなれば、歌のタイトルにもなり、コスメブランドにもなる「デジャヴ(デジャヴュ)」は、どことなく謎めいて神秘的なイメージを湧かせる言葉です。「デジャヴ(déjà-vu)」とは、フランス語で「既視感」のこと。この景色どこかで見たぞ、こんなシーンをいつだったか経験したぞ、と初体験であるはずなのにすでに経験しているような錯覚に陥ることです。日ごろ創作に取り組む者からすると、「既視感」とは一種独特の恐怖を帯びた言葉で、自信作が「本作には既視感を覚える」なんて評を賜わろうものなら、立ち直るのにそれなりの時間が必要です。ただ今回は、そんな作品選評でしばしば見かける必殺ワードの意は脇に置いておいて、誰もが襲われたことのある“あの不思議な感覚”そのものについてお話してみたいと思います。

デジャヴのような現象を、前世の記憶に関係があると考えたのは、自身の名を冠した定理でよく知られる古代ギリシアの数学者で哲学者のピタゴラスです。数学者らしい解釈ですね。一方、精神分析学の先駆者ジークムント・フロイトは、デジャヴとは抑圧された欲望に関わるものであると論じました。『夢判断』を著したフロイトらしい穿った見方ですよね。とまあ、現代に縷々連なる学派をなした大家であっても、それぞれにデジャヴへの理解は異なります。いまもなおデジャヴは心理学や脳神経学の立場から、曖昧な記憶として刻まれている不確かな過去に結びつくものであるとか、さらには予知夢であるとかさまざま論じられており、要するに門外漢の一般人からすると、いまだ正体不明の摩訶不思議な現象と粗くまとめて理解するほかないのかもしれません。そうした点もまたこの語がまとう神秘性にひと役買っているのだと思いますが、あなたが作家志望者なら、もうここまでのくだりで嗅覚鋭く鼻をひくつかせているのではないでしょうか。デジャヴに残された理解の余白、これは作家になりたい者にとって何を意味するでしょう? そう、デジャヴという謎めいた言葉の向こうには、未知の新しい世界が広がっているかもしれない──ということなのです。

ショートショートの名手が描く奇想天外な「デジャヴ」風景

1940年代以降、アシモフやクラークやハインラインとともに、20世紀半ばにSF黄金時代を築いた米国のSF作家フレドリック・ブラウン。巧妙かつ奇想天外なストーリーでショートショートの名手と謳われたその作品群はいまや正真正銘の古典、のちのSF作家たちにも多大な影響を与えました。SFに親しむ読者なら、あれ? これどこかで読んだような……という話のもとを辿ってみたらフレドリック・ブラウンに行き着いた、なんてこともあるくらいです。いってみればデジャヴの“オリジン”であるわけですが、さて、その本家本元がデジャヴを描くと──

何千何万という人々が、身を切る寒さをものともせず、永遠不変ではなくなった星々の繰り広げる壮大な野外劇(ページェント)を見あげていた。まだ完全ではなかったが、信じられない事態が展開しているようだった。

フレドリック・ブラウン著、安原和見訳『夜空は大混乱』Pi in the sky/『フレドリック・ブラウンSF短編全集〈2〉すべての善きベムが』所収/東京創元社/2020年

ご紹介したのは新訳版ですが、短編集『宇宙をぼくの手の上に』に収録された『狂った星座』と聞けばピンとくる愛読者もおられるでしょう。下っ端の天文台職員が星座に“ズレ”を発見したことを皮切りに、そこらじゅうで星座の狂いが確認されはじめ、世界中が大混乱に見舞われます。そんななかひとりの物理学者が、元科学者でいまはアメリカ有数の製造会社の社長となっているスナイヴリーという男の存在に思い当たります。上を下への大騒ぎをよそに、動きつづけた468個もの星々は、やがて新たな星座──もとい、ある言葉をかたどります。

せっけんは
スニヴリー

(同上)

そう、スナイヴリーは、星々を用いて自社製品の壮大な宣伝広告を目論んだのです。しかし、綴りを間違って「スニヴリー」(“洟垂らし”の意)としてしまったというオチがつくのですが、想像すべきは星座が形づくる宣伝コピーの壮観です。これすなわちとてつもない規模のネオンサイン。天にピカピカと光るジョークと洒落と皮肉の壮大な光景は、星の輝きさえ霞ませて都会に瞬く無数のネオンサインのパロディ。似たのは見たことあるけど、目にはまったく新しい──これぞ世界が体験する仰天のデジャヴです。

無限の内面世界を旅し「デジャヴ」の果てを見よ

ところかわって我ら日本の兼好法師。その『徒然草』にはこんな一節があります。

(前略)昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。
 また、如何なる折ぞ、たゞ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かゝる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

西尾実、安良岡康作・校注『新訂 徒然草』第七十一段/岩波書店/1985年

わかりやすいよう多少補完して現代語に置き換えるとすれば──むかし話を聞いても「ああ、それはちょうどいまのこの人の家のあのあたりのことだったのかもしれない」と思われたり、いま目の前にいる人のなかに、物語の登場人物が重なって見えたりすることがあるが、それは誰しも同じように感じるものなのだろうか。また、ふとした瞬間に、人の言葉や目に映るものに触れて「これと同じようなことが、いつか前にもあったような気がする」と感じることがある。いつのことかは思い出せないけれど、確かにその出来事を体験したような気がする。こうした感覚を抱くのは、自分だけなのだろうか。──と、そんな意味になりますが、これぞデジャヴの感覚を表した文章といえるでしょう。

「つれづれなるまゝに」──気ままに暇に任せて書いてみる、といかにも長閑な空気感をまとって筆の起こされる『徒然草』。しかし、この序段の一文は「あやしうこそものぐるほしけれ(一日中硯に向かい、とりとめもないことを書きつけていると、自分でも奇妙な、正気を失ったような気持ちになる)」と綴られているのです。それは作者の謙遜を表していると見ることもできますが、『徒然草』に収められた目を瞠るばかりの多彩な内容は、机の向かってものを書くという、日常的で閉鎖的な佇まいとは裏腹な、人の内面世界の自由さ、無限の広さ、深遠さを示しているようにも感じられます。物書きが向かう文机には、さながらドラえもんに出てくるのび太の勉強机の引き出しが備わっているかのよう。その先の広大な時空へとつながる入口なのです。『徒然草』には、思索があり、雑感があり、多種多様な逸話・説話があり、「ものぐるひ」のごとき空想世界が展開しています。「デジャヴ」なる精神分析学的定義の存在しない何百年も昔に、上記のとおり「既視感」を言語化した吉田兼好は、まさに小林秀雄いうところの“物が見え過ぎる眼”をもつ人物であったのでしょう。

さて、ではもう一度、『徒然草』第七十一段のデジャヴのくだりを見てください。どうですか、深く何度も読み込むと、既視感とは異なる感覚も現れていることがわかるのではありませんか? この場所を知っている、あの人とどこかで会った──。ときに人の心をかすめるデジャヴのごとき感覚の向こう側には、広大無辺の物語世界が存在している……それに気づいたとき、あなたのなかにはもう新しいストーリーが芽生えてきているはずです。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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