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育児と創作の交差点

2025年08月07日 【絵本・童話を書く】

ひとくくりにはできない子どもの悩み

2024年の出生数がついに70万人を下回るなど、少子化の一途を辿る日本。かつて地方から都市部へ集団で就職する若者を「金の卵」と呼んだ時代がありましたが、いまや新生児はひとり残らず金の卵。国は税制改革に取り組み、民間は子育て世代を応援するサービスを拡充。金の卵を大切にするばかりか、金の卵を育てる親、さらには金の卵を産み落とす可能性のある世代……と上へ上へと遡り、さまざまな取り組みがなされています。それでも国家存亡の憂いは到底拭いきれず、課題もまた天高く山積の感は否めません。こうなると出生数の下げ止まりを期待するとともに、少数精鋭論とはまた違いますが、子どもを心身ともに健やかに育てていくための意識や配慮、考察はいよいよもって重要といえましょう。──と、いつもの当ブログとはちょっと違うテンションで現代日本が抱える問題を説きましたが、モノ書きたるやこうした社会課題にだって多少は首を突っ込む必要があるはずです。とはいえ、いざ現実に即してみればなかなか納得のいく答えの見つからない、総論賛成・各論反対の難問、それが出産や育児というものかもしれません。誰にでもあてはまる正解がないことは承知の上で、ここはひとつ問いをシンプルにするためにも、主に幼児期・児童期ごろの子どもたちと、それを取り巻く大人たちに焦点を定めて考えてみることにしましょう。

大前提として、子どもたちは成長の過程でさまざまな問題に直面します。“さまざま”というのは文字どおりで、悩みの内実や問題の質、レベルは多種多様です。ゆえに解決方法もごまんとあって、ひとくくりにはできません。悩みや問題を乗り越えていけるようになったら──「乗り越える」というのは正面突破だけでなく、誰かの力を借りたり、逃げることも──問題解決力を具えた大人への道を一歩進んだといえるでしょう。人の成長とはひたすらその繰り返しです。ただやはり、心身ともに成長過程のステージによっては、子どもだけでは解決困難な問題に行き詰まることはあるわけで、そんなときにこそ、救いの手を差し伸べる、あるいは差し伸べられる環境づくりへの配慮を求められるのが「大人」の役割といえそうです。

しかしながら私たち大人は、もれなく子ども時代を経験したはずなのに、いざ大人となってみると、深い理解をもって子どもに接しているとはいいがたいところがあります。俯く子に対して「なんでそんなことで躓くの?」「それはいま悩んだって仕方がないこと」「いったい誰に似たんだか」などと、さらに窮地に追い込むような言葉を吐いてしまうことも。スッと冷静になってからフォローの言葉を添えてももう遅い……という日々を多くの親御さんが過ごされていることでしょう。とはいえ、すっかり落ち込む我が子を励まし共感し寄り添った結果、変に増長されても困りますし、親も親で無条件の愛情を湛えるがゆえに、ついつい全許容的な言動を示すに至っては、親子ともどもモンスター化するケースも実のところ少なくありません。結局のところ、子どもの性格や問題の性質からある程度の“傾向と対策”は見出せても、大人の言動に対して子どもがどう反応するかは未知。大人自身が子ども時代に言われたかったこと、してほしかったことをしたとしても、うまくいくとは限らないのです。

子どもに対する親たち・大人たちの不芳(ふほう)

ところで、子どもにとって理想的なのはどのような大人なのでしょう。この直球の問いは、大人である自分の立場から考えてみても、自身の子ども時代を思い起こしてみても、返事に窮する難問です。もしいまあなたの頭に具体的な名前や顔が思い浮かんだとしたら、それは相当に幸せなことです。その方があなたにしてくれたこと、しなかったことを思い出してみてください。ここではさしあたり著名人が遺した子育てに関する言葉を拾うとして、前世紀に200を超える論文を執筆したイギリスの小児科医・精神科医ドナルド・ウィニコットが提唱した「good enough mother(最良の母親とは“ほどよい母親”の意)」や、教育論『エミール』を著した18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの「子どもを不幸にするいちばん確実な方法は(中略)いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」などは、子育てに関わる全大人がゆっくりと咀嚼し、栄養として摂り込む価値のある言葉のように思われます。とすれば逆に「望ましくない大人像」もまた、おのずと輪郭が浮かび上がってはきませんか? すなわち「無関心」「無思慮」そして「過保護」。

さて、ここでようやく「本」のお話。縷々述べてきた問題を取り上げるにふさわしいジャンルのひとつ「絵本」について考えてみましょう。世に出ている絵本が、育児や児童教育にあって不芳とされる無関心・無思慮・過保護を肯定するはずもなく、そこに描かれるのは望まれる親子関係、育児環境、愛着形成、自律性……とすれば、それはいったいどんなものになるのでしょうか?

大人は仕事場へ、子どもは学校へ?

「いやだ いやだ。 いきたくないよう」

市川朔久子作・おくやまゆか絵『ともちゃんとうし』/岩崎書店/2025年

どうしても学校へ行きたくないと泣いて訴えるのは、小学生のともちゃん。通学帽をかぶりランドセルを背負い、玄関の外まで出たはいいものの、涙が止まりません。

「かどまで いけば、 おともだちが まってるから。 ねっ、ともちゃん。
じゃあ、 おかあさんも いってきまあす」
じてんしゃに のって、 げんきよく おしごとへ いってしまいました。
「わあああん。 おかあさーん」

(同上)

YouTubeの切り抜き動画的よろしく、少し意地悪に絵本『ともちゃんとうし』の一部を引用させていただきましたが、このご時世、上記引用箇所だけだと「泣いている子どもを置いて仕事へ行ってしまうなんて!」と心をざわつかせる親世代は少なくないと思います。ただそこは絵本の世界、目くじらを立てるのは早計です。ページをめくれば、ひとりぼっちだけど仕方がない、と泣きながらも歩みを進めるともちゃんの姿があります。泣かれたからとオロオロと狼狽えて親が付き添わなくったって、ともちゃんはひとりで歩けるのです。泣いている子どもを置いていくもいかないも、その是非は状況次第。一方のお母さんは「げんきよく おしごとへ」とあるので、泣く我が子にうしろ髪を引かれてはいなさそうですが、自身の不安や心配、庇護欲よりも、我が子を信じることを選んだのかもしれません。あるいは、親子関係とは実にさまざまですから、もっとドライに、仕事に穴を開けられないとただ急いでいただけなのかもしれません。

こうして泣く泣く曲がり角まで行ったともちゃんを待っていたのは、お友だちではなくなんと、牛。道を完全にふさいでしまうほどの大きな牛が座り込んでいたのです。実はこの牛「トモエ」も、飼い主とケンカして家出してきたという、本人いささかおかんむりな状況にあったのでした。「とも」と「トモエ」、互いの似通った状況。暗示か符丁があるようなないような設定下の小学生と牛は、こうして出会い、ともに冒険に乗り出します──。

ユーモラスなこの絵本は、たとえば「元気を出すんだよ」だとか「無理して学校に行かなくてもいいよ」とか「がんばればおもしろいことが待ってるよ」というような、直截的なメッセージを発しているでしょうか? いいえ、全編読めばわかりますがそんなことはありません。むしろメッセージとは離れたところで、泣いている子どもとヘソを曲げた牛の手を取り合った冒険の、そのただただ「愉快な一幕」を描いているのです。眉間にシワ寄せ目を凝らしてメッセージなど探さなくても、この絵本を読めば、涙目の幼い読者も、きっと何ごともなかったかのようにスッキリと日常へと戻っていけるに違いありません。優れた絵本とは、説法でもって読み手当人の自助努力を促すことなどしないのですね。没入した読者を自動的に別世界へと連れて行ってしまうのです。

絵本や童話を書くために、子どもの心に帰ろう

そもそも、我が子であろうとなかろうと、大人が大人のまま、自分の気持ちを子どもに重ねようとしても無理というもの。大人の立ち位置で児童向けの作品を描こうとするものだから、どうにも説教臭い道徳押し付けの罠に知らず知らずのうちにはまってしまうのです。かといって、子どもの気持ちを理解できないと狼狽することに益はありませんし、開き直ったって何も出てきやしません。このジレンマを抜け出す唯一の道は「子どもとはこうではなくては」といった固定観念を忘れ、子どもの心に立ち戻る意識を、それこそひと筆ごとに呼び起こす以外にはなさそうです。結果、自分自身も自由な作品世界に呑み込まれていったらしめたもの。

私の心は躍る、大空に
 虹がかかるのを見たときに。
幼い頃もそうだった、
大人になった今もそうなのだ、
年老いたときでもそうありたい、
 でなければ、生きている意味はない!
子供は大人の父親なのだ。
願わくば、私のこれからの一日一日が、
自然への畏敬の念によって貫かれんことを!

ウィリアム・ワーズワス「虹」/平井正穂・編『イギリス名詩選』所収/岩波書店/1990年

「子供は大人の父親なのだ」とは実に逆説的でおもしろい言葉です。ウィリアム・ワーズワスが書いたように、空に架かる「虹」のような自然現象もそうですし、この世界には子どもも大人も、心躍らせてくれる出来事が無限にあります。絵本を描きたい児童書を書きたいと思う作家志望者の皆さん、肩肘張ってあれこれ考えを巡らし、創作活動に向き合う前から疲れ切ってしまっては本末転倒。力を抜いて、まずは自分の心に触れてみましょう。さすれば創作上の悩みにも別の見方が生まれてくるかもしれません。誰より先に、創り手側が作品世界に入り込み無邪気に戯れることが肝要です。そしてそうした姿勢がまた、絵本や童話を書く上でも新たな心境をもたらしてくれる……そんな気がしてきませんか?

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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