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「聖域」が与えてくれるのは守護か安らぎか、それとも……

2025年09月19日 【小説を書く】

現代の美しすぎる「聖域」観

日々を忙しく送るのみならず、多種多様なストレスにさらされている現代人。インターネットが常時接続可能になり、さらにはスマートフォンという完全個人向け(ターゲティングとも)デバイスが登場したことで、それを利用する私たち全員は、“何かと便利”という恩恵と引き換えに、時間やタスクに追われ、真偽不明な情報という熱波に24時間晒されるようになりました。機種によっては、ディスプレイ見すぎ、アプリ使いすぎというアラートをご丁寧にも通知してくれる機能まで備え、ありがたいようでいてどうにも複雑な気分。いよいよ疲れた人がひとたび検索窓に「ストレス解消」と打ち込めば、「ストレス解消 おすすめ」「ストレス解消 グッズ」などとサジェストされ、広告要素を大量に溶かし込んだ検索結果がさらなる“情報津波”として押し寄せてくるありさま……。

肝要なのは、“動きすぎてはいけない”ということ。スマホ画面に這わす指の動きをまず止めること、それが情報からうまく距離を取るための最初の一手なのです。とはいえそれが難儀なわけで、だからこそスマホ使用制限を条例に盛り込もうという行政も出てきました。その是非はここでは置いておいて、ともかくそのくらい現代人は、自分が自分らしくいられる場所に身を置くことに躍起になりながらも、いっこうに実現できないというのが現代の世相なのでしょう。あなたにはホッとひと息ついて安らぎを得られる場所、ありますか? ストレスを忘れられる時間、嫌なことから逃げ込めるところや存在を、ひとつやふたつ思い浮かべられるでしょうか。

たとえば、行きつけの飲み屋やカフェ。きょうもきょうとて目のまわる一日を過ごしたのち、きょうこそ(きょうも?)行くぞ! と馴染みの顔が集まる、あるいは知った顔がひとつもない酒場に繰り出すのはきっと、疲れを癒す憩いの場を求めてのことでしょう。いいや仕事帰りはどこにも立ち寄らず、まっすぐ自室に帰り籠もるのが信条という人もいるでしょう。ベッドに寝そべり、あるいはお気に入りのソファに身を沈めて、本を読む、好きな音楽を堪能する、お気に入りの映画を観る……そんな至福のひとときこそが欠かせない方々だって多数派といえるでしょう。ほかにも、ここに骨を埋めたいなと思う旅先の地、愛する人そのもの、誰にも立ち入らせない自分自身の心の片隅こそが、自分を優しく受け容れてくれる「聖域」と信ずる人だっているはずです。その存在を心のなかに思い浮かべるだけで、人は案外と生きた心地になれるものなのです。

聖域──何人にも決して侵されることのない、何人も決して侵してはならない神聖な場所「サンクチュアリ」。それは真の優しさに満ちた寛容な場所。神や恩寵によって庇護を受けられる不可侵のエリア。この世に生まれ落ち、長じたあとでなお、もう一度大いなる母の子宮に戻り温かな羊水に包まれる……。そうした場所は確かに現代人には必要なのでしょう。ただ、あなたがもし作家になる、小説を書くと決めたなら、「聖域」「サンクチュアリ」という言葉の美しすぎる語感から、少し離れて一度じっくりと考えてみるのもよいかと思います。

ノーベル文学賞作家が描く「聖域」には、底知れぬ深淵が覗く

日本でもおなじみのヘミングウェイと並び、時代を超えて称賛されつづける20世紀アメリカ文学の巨匠でノーベル文学賞作家のウィリアム・フォークナー(1897-1962)。彼はそのキャリアの比較的早い時期に、『サンクチュアリ』という小説を著しました。ただそこに描かれるのは、現代日本人が思う聖域観とはまるで異なる、不条理と暴力に満ちて救いのない凄まじいまでの「聖域」でした。

「彼からウイスキーをずっと買っていたばかりか、彼のくれるものをただで飲んでいて、隙があったら彼の細君にも手を出そうとしていた連中がですよ。(略)今朝だってバプティスト派の牧師が彼をお説教の材料にしていましたよ。(略)あの赤ん坊への見せしめとして、グッドウィンとあの女を焼き殺すべきだと考えてるようですねえ(略)お前を生んだ両親が浄化の炎で殺されたのはお前を罪のなかで生んだためなんだとね。どうです、考えられますか、文明化された人間が本気になってこんな……」

ウィリアム・フォークナー著、加島祥造訳/『サンクチュアリ』/新潮社/2002年改版

舞台はアメリカ南部、フォークナー作品ではおなじみ「ヨクナパトーファ郡」と名づけられた架空の土地。時代は1920年から10年あまりつづいた禁酒法時代を背景としています。表向きはアルコールの提供が禁止されていたものの、闇酒販売が横行し「スピークイージー」と呼ばれるもぐりの違法酒場が至るところに存在した禁酒法時代。アメリカ史上最凶のギャングアル・カポネが一大帝国を築いた背景にも禁酒法があったように、作中でもその悪法により犯罪件数はかえって増加し、南部の町は南北戦争終結以降、階級格差が激しくなって貧困が蔓延。人々には教会従属の意識が強くなり、あたかも旧態依然とした思想に閉ざされているかのよう。ほかでもない1897年ミシシッピ州生まれのフォークナーこそが、まさしく青年期をこの時代にこの場所で送ったわけですが、彼はそうした舞台背景のもと『サンクチュアリ』と題した小説を書き、アメリカという国の起源と歴史のあり方にまで迫り、その愚かしさと矛盾を抉り出したのでした。

(以下、ネタバレがあります。作品を未読の方はご注意ください。)
物語は、妻と継娘を残しひとり出奔した弁護士ベンボウが、闇酒を密造するグループのボスである無法者ポパイと出会うところからはじまります。密造グループのアジトは、禁酒法下に蠢く人々の集う隠れ家。そこは司直の手のおよばない、コミュニティ独自の倫理と論理と恣意を唯一の法とする「サンクチュアリ」です。やがてテンプルというひとりの軽薄な女子大生が迷い込み、彼女を巡って殺人事件が起きます。ベンボウは立場上、殺人の濡れ衣を着せられた酒密売人のグッドウィンを弁護することになりひとり奔走しますが、関係者は口を閉ざすか嘘をつくばかり。ようやく証人を得て勝利を確信したのも束の間、被害者であるテンプル当人の偽証により敗北。無実のグッドウィンは町の人々のリンチに遭い殺されてしまいます。殺人の真犯人は、冷酷さと暴力で配下を支配していたポパイでした。しかし彼もまた、皮肉にも別の無関係の殺人容疑によって捕らえられ処刑される憂き目に。それは罪ある者の無実の死。しかしそんなことは、僻見と捻じれた倫理観に囚われ私刑を正当化する町の人々には関係ないのです。どこまでも薄っぺらな法の正義。そこにある無意味と無慈悲。フォークナーはそれらすべてを、「くだらねえ」とひと言吐き捨てるかのように乾いた筆で描いているのです。

物語は、時系列の筋書きに回想シーンが挟まれるというようなありふれた造りではなく、フォークナーの他の作品と同じように複雑な構造をもっています。複数の人々の行動を追う流れで、真実は容易に姿を見せることなく、やがて彼らの姿が重なり合うところから事件の真相が浮かび上がってきます。それは、ひとつの象徴的な事件──ポパイによる殺人のきっかけとなった事件に集約されます。性的不能者だったはずのポパイがおよんだ女子大生テンプルへの異様な暴行。その役割を果たしたのはトウモロコシの穂軸でした。アメリカ原産であり、アメリカ中西部・南部の主要作物であるトウモロコシを、蹂躙の象徴としたフォークナーの意図はどこにあったのか。無論トウモロコシに罪はありませんが、コーンベルトと呼ばれる一帯がまるで、アメリカが抱える“闇のサンクチュアリ”のごとく読み手の脳裏に刻まれます。

目を凝らせ──聖域の奥底には何が?

社会的な字義としては、駆け込み寺や避難所、隠れ家の意もある「サンクチュアリ」。冒頭にも書いたように、何人も侵してはならない聖域です。いわば“神”に守られた安寧な場所なのです。翻った形で表現すれば、善悪問わず侵入しようとする者を徹底的に排除した場所といえるでしょうか。その排他性が極限にまで高まれば、強大な内圧で異物の侵入を許さないばかりか、共同体のなかにいた者でさえ、ひとたび異物と見なすや即時追放し聖域の秩序を保つ。そうした異常なほどの自浄機能まで備えることになります。ゆえに凄惨な殺人や強姦の疑いが生じれば──それがたとえ推定無罪、どころか冤罪であっても──生きたまま焼き殺してしまうと。フォークナーは、こうした状況を「自分として想像しうる最も恐ろしい物語」として描き出したのです。

行きつけの飲み屋、誰にも邪魔されない自室、愛する存在という心の拠り所……聖域と呼び得る場所、存在、人々が守護を求める大切な場所も例外ではないかもしれません。行き過ぎた同調はいつしか純白の「聖」に「邪」の色を滲ませ、もっとも厄介な“確信犯”として人々を翻弄し、やがては我が身をさえ排除しにかかるかもしれないのです。小説を書きたい、それも深いテーマやセンセーショナルな驚きをもった物語を創作したいと野心を燃やすならば、言葉の、もっといえば時代時代のメディアが言葉にまとわせる心地よい語感をいったん忘れ、見せかけの衣の深奥を透視する鋭い眼と思考が重要となるでしょう。「聖域」「サンクチュアリ」とは、底知れない意味と深い響きを感じさせる、そうした言葉の代表といえるでしょう。

いま一度、あなた自身の聖域を思い浮かべてみてください。そこは、幸福感と癒しの優しさに満ちていますか? 誰にも邪魔されない安全な場所ですか? 本当にそうですか? ただそれだけでしょうか──。考えたくないような恐ろしい疑いから、小説家としての真の一歩がはじまるかもしれません。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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