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論理と空想のSF世界に遊ぶ

2018年12月21日 【小説を書く】

意外と知らないSF小説の定義とルーツ

SF(Science Fiction)とは、科学的な空想に基づくフィクションのこと。ただし、たとえば宇宙を空想した物語をすべてSFとすると、あの『竹取物語』もSFということになってしまいますので、ここはアイザック・アシモフのいうように、読者の「センス・オブ・ワンダー(不思議さに対する感受性)」を爪弾き、価値観の転倒まで催すか否かをSFの定義として含めておきたいところです。とすると『竹取物語』はSF的設定の物語ではあるがSFではなく、おとぎ話(昔話・伝説)として括るべき作品となります。同様に、宇宙や星々の世界を描いてはいても、ギリシア神話やエジプト神話も外して考えたほうが、本稿で取り扱う狭義のSF小説の歴史と未来は捉えやすいでしょう。

世界最古のSFは、17世紀初頭ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが著した物語『夢』が有力です(さまざまな意見がある)。自身が説いた「ケプラーの法則」に基づいて書かれた本作を、前出のアシモフも“SF小説のはしり”と認めています。文学を学んだ貧しい少年が精霊に連れられ月へと旅して宇宙と月の知識を得ていくこの物語は、作者のケプラー自身が見ている「夢」という設定で描かれています。コペルニクスの唱えた地動説を支持したケプラー。ここから天文学は目覚ましい発展を遂げていくわけですが、いっぽうでいまだ魔女裁判が公然と行われる時代でもありました。ケプラーが波瀾に富んだ半生を投影しながら自説を「夢」の物語として描いたのも、そんな時代の暗鬱とした空気に理由があったのかもしれません。

SF創始の19世紀から終末小説まで

同志諸君。ここにおられる方で、まだ月を眺めたことのない方、月の話を聞いたことのない方はいないと思います。ここで私が月の話を始めたからといって驚かないで頂きたい。おそらくはこの未知の世界のコロンブスたることが、我々のために残された勤めなのです。御静聴くだされ、満腔の御支持を仰ぐことができるなら、私は諸君を月世界の征服者に致してみせましょう。合衆国三十六州に、さらに月の名前を加えてみせます!
(ジュール・ヴェルヌ著/高山宏訳『月世界旅行』筑摩書房/1999年)

科学的空想に基づく純然たるSF小説の創始の一作といわれるのは(こちらは大方の意見が一致している)、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』。大砲で打ち上げた有人ロケットによる月世界の冒険と帰還を描いた物語です。発表は1865年、南北戦争が終結したこの年、既にロケットは発明されていて、南北戦争・クリミア戦争・薩英戦争などでも使用されました。したがって月にロケットを飛ばすという発想そのものは取り立てて斬新ではなく、事実17世紀なかばにシラノ・ド・ヴェルジュラックが月旅行の話(『月世界旅行記』1656年)に書いています。ただ、こちらが宇宙と人生を考察した哲学的な寓話であったのに対し、ヴェルヌの『月世界旅行』は、戦争への風刺を盛り込んで、小説としての構造をもつ作品として確かな評価を得たのでした。

ヴェルヌにつづく草創期を代表する作家H・G・ウェルズによって、SF小説はより現代的な方向性をもつことになります。ヴェルヌが宇宙や海底への冒険を主体に描くいっぽう、ウェルズは『タイムマシン』(1895年)で主人公を遠い未来へ向かわせました。すなわち、より科学的な発想を土台とした未知の世界を描いたのです。そしてこの作品から発せられたのは、ユートピアのなかのアンチユートピアを透視した警告的メッセージ。ここから、アンチユートピアSFは今日までつづくひとつの潮流となっていくのです。

とここで、作家になりたいと願う者であれば留意しておくべき裏話もあります。作品に陰影をつけやすいアンチユートピアあるいはディストピア。昨今のSF映画を見れば、ほぼそれ一辺倒です。第二次大戦後のイギリスでも「破滅後の世界」を描いたSF小説が流行した時期がありましたが、評論家はそれらを「心地よい破滅」と揶揄しました。破滅した世界を描いているのに悲愴感がなく、都合よく生き残った者たちには絶望感もなく、ぬるま湯のように心地よい終末小説であったからです。ご存じのように第三次世界大戦勃発による終末小説も数多登場しましたが、大半はやはり心地よく破滅した体たらく。ドラマを描きやすいという理由だけで易き流れに身を任せると、頭ひとつ抜け出すことは難しいのかもしれません。

大御所の時代から最先端SFに至る道

1950年代から70年代にかけてSF界のビッグ・スリーと呼ばれた、アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラーク。最も長命を誇ったクラーク(2008年死去)の代表作のひとつに『2001年宇宙の旅』があります。1968年にスタンリー・キューブリック監督により映画化され、伝説的栄誉を得ることになった一作です。そんな巨匠クラークの最後の単独著作が『神の鉄槌』(1993年/以後共著はあり)。小惑星衝突により地球が死の星となる危機に人類が奮闘する物語で、映画『ディープ・インパクト』の原案になったといわれています。クラーク作品の大胆なプロットと壮大なヴィジュアルイメージは、映画化にまさにうってつけなのです。

近年ハードSF(より専門的な科学の知識・論理を取り入れたSF)の代表格に数えられる覆面作家、グレッグ・イーガンの新作は『ゼンデギ』(2015年)。もちろん厳密な科学知識となると門外漢の手には負えませんが、余命宣告を受けた主人公が、自身の脳パターンからヴァーチャルな代理人格を創り、現世に残される息子を正しき道へと導いていこうと考えるストーリーには、科学の進んだ現代に真に人間が望むものは何かという点で、脳内がひと混ぜさせられます。

『ゼンデギ』然り、最先端SF小説のアイデアの多くはコンピューター世界と密接です。2018年4月、飛浩隆は『自生の夢』で第38回日本SF大賞の栄冠に輝きました。既出作品をまとめた本書の表題作『自生の夢』は2009年発表、同年に34歳で早世したSF作家・伊藤計劃を追悼した一篇といわれています。ライフログ書記ツールや検索エンジンのなかの強大な知性、仮想空間につくり出された人を殺せるほどの強い言葉をもつ亡き作家の人格……物語にちりばめられた独創的なアイデアは圧巻です。しかし、生身の人間からどんどん遠ざかっていくようなSF世界にありながら、逆に“自我”はどのように生まれ育っていくのか、肉体が消滅したあとに何かが残るのか、啓示とは何か――などと原初的な問いがいくつも舞い降りてくるのだから不思議です。もしかしたらそれが、SF小説の存在意義のひとつといえるのかもしれません。

SF的空想世界が作家のイマジネーションを磨く

科学の進化にきれいに沿うように、人間のフィジカルが大きく変わるわけではありません。無限に進化していく科学に対して、では人間の“無限”がどこにあるかといえば、それはインナーワールド――心情や思考でしょうか。だからといって、愛こそは無限! なんて大団円で作品を結ぶと、陳腐なお話にもなりかねませんので要注意。人間の“思念”には、それこそ無限に未踏の領域が存在し得るわけですから、ここは慌てず騒がず、想像力の揮いどころと落ち着いてモチーフを見定めることにしましょう。

ちなみに前出の飛浩隆は16年ぶりの長編小説、『零號琴』を2018年10月に刊行。近著ということもあり、ネタバレは避けたいので出版社の解説文を引用するに留めますと……

特種楽器技芸士のトロムボノクと相棒シェリュバンは惑星〈美縟〉に赴く。そこでは首都全体に配置された古の巨大楽器〈美玉鐘〉の五百年越しの竣工を記念し、全住民参加の假面劇が演じられようとしていた。上演の夜、秘曲〈零號琴〉が暴露する美縟の真実とは?
HAYAKAWA ONLINE

とまあ、わかるようなわからないようなですが……、「古の楽器」や「假面(仮面)劇」と、ギリシア神話や古典劇を思わせる道具立てや仰々しい舞台設定から、何やらパロディやオマージュの匂いが立ちのぼってきます。飛らしい鋭いエッジがそこかしこに効いているのだろうと予感すると同時に、時間の縦軸もまた無限であったと思い至ります。

SF小説というのは、ともするとマニア向けの特殊分野と考えられがちです。小説を書きたいと夢はあっても、科学知識の壁の前に、SFは無理だよと尻込みする人も少なくないでしょう。けれど前述のように、SFとは“科学的空想に基づく物語”なのです。ハードSFといったコアなジャンルもありますが、ごくシンプルにいえば、科学的空想とは要するに現実に起こり得る未知の世界の想像なのです。途方もないファンタジー世界ではなく、不可能ではないと思わせる現代の延長線上にある世界を描く物語なのですから、これほど自由で楽しい空想遊びに誘ってくれるジャンルありません。

小説を書くからといって、苦悩したり青ざめてブツブツいったりするのが王道というわけではありません。あなたの空想世界をいかに不可能ではないと思わせるか、どれだけ無理なく読者を作品世界に没入させられるか。SF小説創作への挑戦とは、まるで作家になるステップアップの課題のよう。新たな分野に挑戦し、新たな世界を空想することは、作家になりたいあなたの器をひとまわりもふたまわりも大きくしてくれるのかもしれません。歓迎すべし、SFワールド! いざ2100年の宇宙の果てへ!

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