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本を書くことの功罪を考えてみる

2020年11月24日 【小説を書く】

わかっちゃいるけどわからない「夢と現実の差」

自分の書いた小説を活字にしたいと日々精進する作家志望者のなかには、さらにこんな大志を抱いている方もいらっしゃることでしょう。小生の小説が映画化されたら……、ぼくの創ったヒロインが活躍するシリーズ作品のアニメ化、それが最大の目標! ――といった夢の向こう側に見るさらにもうひとまわり大きな夢のイメージです。もちろん、どのような夢を思い描くのも、目標を掲げるのも個々人の自由です。夢が大きければ大きいほど、闘志が燃えるとなればそれほど喜ばしいことはありません。そもそも夢を抱くということは、生きていく上で、また人間の情緒的な面でも大切です。夢に向かって、実現しようと邁進する姿勢。それは実際重要なことなのです――――ただし。ただし……です。

夢を具体的な目標として真摯に考えるならば、知っておくのが望ましい真実もあります。つまり、夢と現実は違う、ということです。当たり前のようでいても、弁えて(わきまえて)いるつもりであっても、思い描いた夢の風景とは異なる現実を目の当たりにして、こんなはずじゃなかったとうなだれるケースは数限りなくあるのです。詩を書いたり小説を書いたりする創造的な人間は、おおむね感受性が強いというのが相場ですから、うなだれるだけでは済まず、絶望してしまう例だってないとはいえません。作家志望者であれば、現実的な自己防衛として、何としても先まわりして予防策を講じておきたいものです。作家が知る「夢」と「現実」の違い――それは「本を書くことの功罪」に関係するお話になります。

ライトノベル作家の夢の先

前段で作品のアニメ化を例に挙げましたが、ライトノベル作家を目指す書き手のなかで、自作のアニメ化を夢見る方は少なくないでしょう。そこをゴールと目している方だっていらっしゃることでしょう。しかし近年はなぜ、漫画を差し置いてライトノベルがこんなにもアニメ化されるのでしょう? もともと一般的にアニメとは、「絵入り」である漫画の動画化を意味していたはず……。だのに、原作が文字のみコンテンツであるライトノベルが、漫画と比肩する存在となり得たのはなぜか? それは、テレビの深夜枠の成功もあり活気に湧いたアニメ市場において、本家漫画の連載スピードでは市場のニーズを埋めるに追いつかず、1年でシリーズ3巻4巻と刊行されるライトノベルに白羽の矢が立ったからなのです。ライトノベル愛好の作家の卵たちはこれに色めき立ちました。我らがライトノベルの時代が来た、我も書いて書いて世に出、企画担当者の目に留まってアニメ化を果たそう! ――と。

ところが、世はなべて栄枯盛衰の理(ことわり)によって成るものなり。ライトノベルの原作を雲霞(うんか)のごとく掻き集めてアニメを市場に大量投下した結果、当然のように質の低下を招き、マンネリ化も免れず、急騰していたアニメ市場の盛況も頭打ちとなります。その煽りを食って先行きの展望を見失ったライトノベル作家もいるようです。一度意気消沈した市場で新たな道を模索することは困難でしょう。ただ、だからこそいまは真に再生するための試練のとき考えるべきかもしれません。それもまた人生、そしてそれが現実。ともかく、これはメディアミックスのひとつの功罪といえるでしょう。この難局を乗り越える真のライトノベル作家が必ずや再誕するはずです。

歴史小説はフィクションなのか? それともノンフィクションと呼ぶべきか?

作家稼業はある意味因果な商売です。なぜって、自分の書いたもの、考えたことが活字になって世に発せられてしまうからです。よくも悪くもその言葉は少なからぬ影響力をもち、作者自身思いもよらなかった状況を生みだすことさえあるのです。作家志望者は己に都合のよい夢ばかりを見がちですが、当然ながら現実にはなかなかいろいろあるようです。

司馬遼太郎が独自の価値観で歴史の空白を埋め、生み落とした数々の作品はこれからも人々を魅了してやまず、読み継がれてゆくことだろう。作品は今後も映像化され、その舞台になった地は、官も民もお祭り騒ぎに明け暮れるはずだ。地元で語り継がれた「本物の歴史」は掘り下げられることなく忘れ去られ、司馬遼太郎が紡ぎ出した「英雄物語」が逆輸入のすえ、いつのまにか現地に伝わった話であるかのごとく都合良く喧伝されている例を、私は身近でも嫌というほど見てきた。

(一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』集英社/2013年)

歴史家・著述家の一坂太郎は、没後20年を経てもなお人気を誇る歴史小説の大家、司馬遼太郎の功罪を説きました。まず、質問をひとつ。歴史小説は「フィクション(作り話)」であるか否か? ――答えは、史実をもとにしたフィクションであり、そうであると認識している人だって大勢いるでしょう。ところが、架空の主人公が活躍する時代小説についてはフィクションと受け取ることができても、歴史上実在した人物が登場する歴史小説に関しては、どうしてもノンフィクションと思い込んでしまう人が少なくないのです。そして、そんな“ノンフィクション的歴史小説”の最たる量産者が司馬遼太郎というわけです。司馬氏の功罪といっても、氏に実際非があるわけではありません。史実の知識に乏しいばかりに、思い込みや勘違いしてしまうのは読者のほうなのですから。けれど、だからといって無辜の読者を責めるわけにもいきません。作家の描きだしたイメージに心酔したり背を向けたりするのは読者の自由だからです。ただ、これから作家になりたい、歴史小説を書きたいと目標を定める者なのであれば、作家とは、こうした因果を生む定めにあると認識した上で執筆に臨むべきでしょう。作家の創りだしたイメージが独り歩きし、それによって困る人や当惑する人がいないとは限らないのです。

「功罪」を知って本を書くことの“強み”

思うに、どんな職業、立場、地位であっても、「功」と「罪」の背中合わせの運命からは逃れられないのかもしれません。しかし作家のそれは影響力が大きく、社会的、地域的な問題に発展することも考えられるのです。その覚悟と良識も、作家という職業人と不可分なのではないでしょうか。「本を書くことの功罪」を考えてみると、作家に限らず、一見華やかな職業につきものの苦労や難題が見えてきます。それらの問題の重みに思い致すことも、それぞれの職業志望者の使命であるということなのでしょう。

……としかつめらしく結んでみましたが、なにも創作意欲を殺ごうというのではありません。最後に声を大にします。本を書きたい人たちよ、怯むな! 躊躇うな! と。作家の功罪といった、職業にまつわる現実を知り意識にインプットすることは、ふわふわと頼りない船をしっかりと安定させるバラスト(船底に敷く重り)を積むのにも似た作業なのです。その覚悟ができた上での船出となるならば、何があろうと揺るがずたじろがない作家としての航海が望めることはまず間違いありません。

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