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エッセイを書きたい、と思うその対象として、すぐさま自身の愛するペットの姿を思い浮かべる人は少なくないでしょう。実際、世間には数限りないペット関係の著作が存在していますが、愛犬・愛猫への愛をひたすらに綴るペットエッセイは、理屈抜きに愛犬家・愛猫家の共感を誘ってやみません。
それにしても、第三者にとっては自分のペットでもない動物のいわば“ノロケ話”が、これほど人気を博すのはなぜでしょう。もちろん二心なき純粋な動物の姿には、何にも代えがたい魅力がありますが、ただそれだけではないようです。世に名だたるペットエッセイを読んでいると、ときに、人知れぬ森のなかの泉のように、作家の思想や精神を映し出している部分があることに気づかされるのです。それこそが愛らしいペットの物語の奥にある妙味で、「彼はなぜこれほどにペットを愛するのだ」という問いへの答えとして、作家の本質があられもなく露出していることすらあります。そんなところにも、私たち読者はペットエッセイの魅力を見出しているのでしょう。
『鞍馬天狗』の作者として名高く、横浜・鎌倉の町と猫をこよなく愛した大佛次郎には、『猫のいる日々』という“猫愛”の集大成というべきエッセイ集があります。何十年にもわたって書かれた猫に関する随筆がまとめられた一書で、出会う野良猫・捨て猫すべて放って置けず関わった猫500匹以上という大佛の、猫たちと猫にメロメロ文士との鎌倉での生活風景が描き出されています。大佛の鎌倉という土地への愛着も忘れられません。本書では、猫との暮らしを営む土地と、そこに住まう人々の猫を介したふれあいが愛情深く見つめられていて、あたかも土地への愛着のなかから“猫好き心”が育まれたような印象さえ受けます。
じつはこのエッセイ集が書かれたある時期、大佛にとってはひとつの重大な事件が起きました。1960年代、鎌倉に古都の景観を破壊するほどの大がかりな開発計画がもち上がったのです。大佛次郎は住民たちと反対運動に立ち上がり、闘いの末に計画は阻止されました。それはこの国において、自分たちの住む土地の歴史や自然を自分たちで守ろうとする意識が団結し実を結んだ、初めての住民運動でした。
子猫で鈴をつけて、よく庭に遊びにくるのがあった。時間がくると、いつのまにか帰ったと見えて姿を隠し、また明日、やって来る。かわいらしい。どこから遊びに来るのかと思って、ある日『君ハドコノネコデスカ』 と、荷札に書いて付けてやった。三日ほどたって、遊びにきているのを見ると、まだ札をさげているからかわいそうにと思って、取ってやると、思いきや、ちゃんと返事が書いてあった。『カドノ湯屋ノ玉デス、ドウゾ、ヨロシク』 君子の交わり、いや、この世に生きる人間の作法、かくありたい。
猫は、ものごころのつく頃から僕の傍にいた。これから先もそうだろう。僕が死ぬ時も、この可憐な動物は僕の傍にいるに違いない。お医者さんが来る。家族や親類の者が集まる。(最後には坊さんも来るわけだが)その時此奴は、どうも、いつも見なれない人間が出入りして家の中がうるさくて迷惑だと云うように、どこか静かな隅か、日当たりのよい所に避け、毛をふかふかと、まるくなって一日寝ているだろう。(中略)僕には、目が見えなくなっていても、卓の陰に白いバッタのように蹲ったり、散らばった本の中を埃をいとって神経質に歩いている此の気取り屋の動物の静かな姿や美しい動作を思い浮べていることが、どんなに心に楽しくて、臨終の不幸な魂を安めることかわからない――。
(大佛次郎『猫のいる日々』徳間書店/1994年)
大佛の体(てい)はメロメロであるかもしれませんが、その文章はユルユルとはほど遠く、文豪たる品格を具えています。そこには、猫を愛するという所為に殉じるような、愛着する存在のためになら犠牲を払っても厭わないような、穢れのない純愛精神と生き方の芯があり、本書はそのことを細やかに説いているようにも思えるのです。
カレル・チャペックは、『ロボット(R.U.R)』(「ロボット」という言葉の生みの親はチャペックといわれています)『山椒魚戦争』など鋭い警句を秘めたSFが代表作ですが、このチェコの国民的作家による愛犬家のバイブル的1冊といえば、『ダーシェンカ』でしょう。多才なチャペックは、自身の飼い犬が生んだ雌犬に「ダーシェンカ」と名づけると、文章のみならず洒脱なイラストと写真もふんだんに用いて、ふかふかの毬のような子犬の愛らしさをこれでもかと表現しました。しかしそれは、自分のペットへの愛がゆえの、感情的・内向的なありかたとはちょっと違う気もします。もっと博愛的な、愛すべき純真な生き物を最大限愛らしく表現して読者に届けようとする、チャペックのゆるぎない姿勢が貫いている、といえばわかりやすいでしょうか。
それが生まれたときは、白くてほんのちっぽけで、手のひらに入るくらいだった。もし、2つのかわいい黒い耳とお尻のしっぽがなかったら、小犬だとわからなかっただろう。私たちは、ちょうど女の子の犬が欲しかったので、ダーシェンカと名づけることにした。
さあ、ダーシャ、聞いておくれ。おまえにお話をしてあげるから、しばらく、ちゃんとおすわりしていてよ。何のお話かって?そうだね、犬のしっぽのお話なんかはどうかな。
それでね、ダーシェンカ、君たちフォックステリアからアイディアをもらい、我々人間もまた地面を掘り続けているわけなのさ。探しているのは古代の人間の骨つぼや骸骨で、見つけると博物館に保管している。だめだよ、ダーシェンカ、そういう骨はしゃぶるものではなくて、見るためのものなんだから
(カレル・チャペック『ダーシェンカ』新潮社/1998年)
仔犬が跳ねまわる、愛で満たされた平和な暮らし――いいえ、そうではありませんでした。この作品の初版が出版されたのは1933年。ヨーロッパをナチスドイツが席巻し、チャペックの母国チェコにいましも侵攻しようとする時代でした。チャペックは『園芸家12カ月』(中央公論社/1996年)というユニークな園芸エッセイも著していますが、動物や花木を愛した彼は、不安な世のなかだからこそ、愛らしいもの、美しいもの、楽しいものを少しでも人々に届けようと意を決していたのではないかと、そんなふうに思えてならないのです。
愛するペットたちの姿をエッセイや物語に書きたい――そのような衝動が起きたら、少し立ち止まって考えてみることをお勧めします。“書きたい”という気持ちの根底に、個人的な愛以上、記念的な意味以上の、“何か”があるでしょうか。そこを見つめてみてください。その“何か”こそが、あなたが心から愛したペットの像をいっそう輝かせる、作品の内なる光源になるはずなのです。
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