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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

物語が“降りてくる”頻度を上げるいくつかの方法

2018年06月01日 【小説を書く】

“埋もれた未知”との遭遇を求め、いざ外へ

小説家になる? そりゃーなれるものならなりたいけど、逆立ちしても無理だね、と端から問題外と諦めている人。あるいは、小説家になることを真剣に志してきたものの、数年の修業を経てどうも難しいなァ……となかば挫折しかかっている人。このブログを読まれているなかには、さまざまいらっしゃることでしょう。そうした方々が「ハードル」として挙げるもののひとつに、“物語を思いつかない問題”があります。

そうと聞いて、それではお話にならないねアハハと鼻で笑っている天狗さんはいませんか? 逆に、自分の頭の蓋をぱかりと開けて、逆さに振ろうが何をしようが、“お話”のはじめの一文字すら出てこないよと、自嘲気味に笑う方もいらっしゃるかと思います。ひとつの小説を書きあげる、さらには小説家になるためには、確かに何かしらの資質が必要となるでしょう。けれど、あなたの職場の左隣に座る先輩が、ある日突然に小説家になることだって現実にはあるんです。そして、その先輩はこう言うでしょう。物語を思いつかないからといって、自分を「素質なーし!」と決めつけるのは早計。無数にあるイマジネーションの抽斗(ひきだし)のなかから、好きな物語をチョイスして……というふうに、小説家という仕事をたやすく見立てること自体が、志望者としてまだまだ未熟であることの証であり、ジャブジャブ湧いて出る物語の出来をこそ疑ったほうがよいだろう――と。

そうです、左隣の先輩兼小説家の言うとおり。そもそも物語とは、人間の内側の何もないところから奇跡の泉のごとく湧いて出るものではありません。私たちの身体の細胞や血液やアレルギー反応が、外界の物質を体内に取り込むことによって生成・作用するように、「物語」の種もまた、未知の存在として外からやってくるものなのです。つまり、天啓のごとく物語が“降りてくる”日を待っていてはダメ。その頻度を上げる能動的な方法を実践してみましょう。

小説を書くためにまず最初に絶対に必要なのは、僕の場合、これは小説になる、と瞬間的に確信することの出来る、これ、というものだ。
(片岡義男『言葉を生きる』岩波書店/2012年)※ちなみに……
上の引用文、ワープロソフトなどでは「まず最初に」に波線が引かれ、「二重表現です」なるアラートがご丁寧に出ることがあります。文法に厳格に則ればそのとおりなのかもしれません。しかし、そもそもこのテキストは口語的な調子で書かれていますし、文芸のシーンでは、こうした“異文法”的表現すら呑み込んで「強調」と見なすこともできるのです。そうした許容力が文芸の奥深さであり、おもしろさなのでしょう。というわけで、あなたがAIライクな文体を目指すわけでなければ、ワープロソフトでしばしば表示されるアラートには、従うばかりでなく都度独自の判断を下すことをお奨めします。

さて、上記引用文の著者、小説家片岡義男は、「これ」は必ず外界からやってくる、と断言しています。その片岡氏と座談会で相対した江國香織もまた、物語が生まれるきっかけはフレーズとの出会いであると語りました。たとえば彼女の短編『号泣する準備はできていた』は、「ready to burst into tears(江國作品のタイトルはあえての直訳。本来は、うれしくて泣いちゃいそう!――の意)」という英文の言いまわしに出会ったことからアイデアが生まれ、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』と題された短編集のインスピレーションは、「It's not safe or suitable to swim(日本での「遊泳禁止」)」と書かれた看板を見たときに湧いてきたと、自らの創作の萌芽について明かしています。

つまり作家志望者たる者、ただの看板すら素通りするなかれ、電車の対面に座った欧米人が広げた新聞紙面の文言にすら注意を怠るなかれ――ということです。江國氏のエピソードは、広い外界には創作のヒントがごまんと存在する、ということを示しています。それを感知できるか否かで、もしかすると作家適性度だって測れるかもしれません。……とまあ、それくらいの真剣さをもち、感覚を研ぎ澄ませて、いざ外へ出てみましょう。きのうまでと景色は一変するはずです。

「当たり前でない世界」の発想法を身につける

ところで、人間は感情の生き物。痛い、苦しい、悲しい、うれしい……と、心身が捉えた信号に従って感情が表出するメカニズムをもちます。ハイ。……でも、チョトマテ。小説創作において、いかにも当たり前の心の動きばかりを想定していては、当たり前の話しか出てこないのではありませんか? 読み手を惹きつける物語とは、いうまでもなくさまざまな世界を描いた作品であり、そこには当たり前でない世界が当たり前のごとく存在する必要があるのです。そんな異世界を読者にいかに無理なく受容させるか。それが作家の腕の見せどころでしょう。というわけで、日常生活の妥当性から切り離れるためには、発想法そのものから見直さなくてはいけません。

ミステリ・ホラーのヒットメーカー貴志祐介は、2017年『エンタテインメントの作り方』を上梓し、その第1章「アイデア」において“逆転の発想”の重要性を強調しています。“逆転の発想”とは具体的にどういうことか、貴志は具体的な教えを授けてくれます。すなわち、「もし○○が××だったら」という発想をもて――。

たとえば実際に作品のヒントになった事例に、こんなことがあった。何年も前のことだが、インフルエンザにかかって熱にうなされていた私は、もうろうとする頭でこんなことを妄想したのだ。
「もしも、インフルエンザ・ウイルスがもたらすものが“苦しみ”ではなく、“快楽”だったら――」
(『エンタテインメントの作り方』角川新書/2017年)

感情の生き物である人間であればこそ、生起する感情が通常とは真逆のものであれば、そこにまったく異なるストーリーが生まれてくるというのも頷けます。この発想法をあれやこれやとシミュレーションして、そこから紡ぎ出されるストーリーに想像を巡らせてみるのも、なかなか有益な作家修業となりそうです。

他の作家・作品が放つシグナルに反応せよ

人間は人間から多大な影響を受けるものです。才気ある先達・同時代人、またその作品を介して受ける影響力は無視できません。それは名だたる小説家や詩人にしたって同じ。後年、どれほど天才ともてはやされようと老成した大家になろうと、彼らにだって作家の卵だった時代は必ずあるわけで、レジェンドとなるまでの道程には、当然ながら己が創作道に迷うこともあったはずです。けれど彼らは道中、自らに届く微細なシグナルを見逃しはしませんでした。ひとたび創意通じる同志に出会うや、沈黙した本来の才能を解き放つ起爆剤としたのです。

しばしばよ、なぐさめに、船人等、
信天翁(あほうどり)生け捕るよ、
潮路の船に追いする
のどけき旅の道づれの海の巨鳥

青空の王者の鳥も
いま甲板に据えられて、
恥さらす姿も哀れ、両脇に、
白妙の両の翼の、邪魔げなる、櫂と似たりな。(後略)
(『信天翁』/『悪の華』収載/シャルル・ボードレール著・堀口大学訳/新潮社/1953年)

アルチュール・ランボーと並び称されるフランスの詩人シャルル・ボードレールは、後進に最も影響を与えた詩人のひとりといえるでしょう。少年期のボードレールは優等生とも呼ばれましたが、やがて見る影もない堕落がはじまり、ついにその埒もあかない素行の悪さに手を焼いた家族により、南洋へ向かう船に乗せられてしまいます。その船上、アホウドリを撃っていたぶろうとする水夫に殴りかかった事件が、生前編まれたただ一冊の詩集、『悪の華』のなかでも最も美しいといわれる詩『信天翁』になりました。もっとも、懲らしめと更生の意をもった航海に関していえば、南洋の大らかな自然はボードレールの心をそよとも揺らすことなく、やがて彼は汚水溜まりのパリへ嬉々として帰ってきます。そうして出会ったのが、1849年に世を去ったばかりのエドガー・アラン・ポーの作品でした。

至上の神の命令一下して 「詩人」がこの退屈な世に生れ出た時、 生んだ母親は喫驚仰天、拳を固め 悪口雑言、哀れとおぼす「神」さへ怨んだ。(後略)
(『祝祷』/同上)

ポーの作品に触れたボードレールは瞬時に魅せられ、彼こそが自分と同じ世界と魂をもつ人間と確信しました(心なしか顔も似ています)。神に唾し汚れた都会の片隅で万物を詠い、困窮のうちに死んでいったボードレール。『悪の華』冒頭の『祝祷』は、ポーに捧げられた一篇といわれています。偉人の才能が、また別の偉人の才能を花開かせるというこの事実を見ても、創作世界を拓いてくれる外的因子の重要性がわかるというものでしょう。

「出会い」は好悪を超えたところにある

メフィストフェレスのごとき悪の伝道者と崇められたポー。実にそのパワーは強大で、ボードレールのみならず東西の多くの作家が彼から小さからぬ影響を受けたといいます。そんなポー自身はといえば、その物語詩『大鴉』は、チャールズ・ディケンズの『バーナビー・ラッジ』に登場する人間の言葉を喋るカラスのキャラクターに触発されて生まれたという説が有力です。ボードレールとは違い、ポーはディケンズに心酔するどころか、あからさまに嫌悪しその作品をけなしまくったそうですが、見るものは見て得るものは得るしたたかさは、しっかりと備えていたようです。

この、敬意を抱く対象だけでなく、忌み嫌い軽蔑する対象ですら、自分の才能を開花させる「出会い」になるという事実。これは作家志望者であればしかと心得ておきたいポイントです。もとより、文筆の領域に限らず自らの人生を思い返してみれば、消極的であった方面や眼中になかった場所で、図らずも重要な出会いがあったという経験は、誰もが何となく覚えがあるものではないでしょうか。

気まぐれな創作の神は、天の予測不能な一点から突然に降りてくるもの。確かに運任せといえるのかもしれません。しかし、単に野原に突っ立っているばかりでなく、高純度のカーボンの避雷針を頭頂部に立ててみれば、天啓もドッカンドッカンと落ちてくるものなのかもしれません。物語を書きたい、詩人になりたいと志すならば、自分の心のあり方を延々と沈潜し思索することも大切。だけど外界に向けて鋭敏なアンテナを張り巡らせることは、もっと大切。そう肝に銘じておきましょう。広く外へ目を向けインスピレーションを掴んでこそ、あなたの創作世界は清新な息吹を得、進化していくのです。