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「マジョリティ」の論理、ちょっと待った!

2018年07月20日 【作家になる】

わかりやすい社会図式に惑わされてはならない

突然ですが、「マジョリティ」の論理に惑わされてはいませんか?
たとえば作家になりたいあなたが小説を書こうと決意したとき、頭にはまずどのような作品を思い描くでしょうか。ひょっとして、小説のテーマなり題材なりを、昨今の時流やら売れ筋やら話題やらを踏まえて選ぶ、ということはありませんか。当たり前だ、それは大事だ、だってこの世の成功のすべてはマーケティングに根差しているだろう! と決めてかかる前に、そうした選択、傾向には危険な面があると知っておいても損はありません。

いうまでもなく「マジョリティ/マイノリティ」は社会の構成人員のごく単純な分け方で、「マジョリティ」中心に考えられていた社会のいろいろなことが、近年では「マイノリティ」の立場に立って見直されるようになってきました。性的な問題、宗教上の問題、身体上の問題……この種の報道を聞かない日はありません。この流れは、現代の人間社会のひとつの進歩、成熟といえましょう。

ただ、その上でまず指摘しておきたいのは、この社会の変容にはやはりジレンマだって存在するということ。行政など世の中の「マイノリティ」への対応措置が、マニュアルをなぞるようなものになったり、区別が差別を生んだりする可能性もあるのです。こうした問題を回避するために重要なのは、形式的・マニュアル的に問題を認識するのではなく、助けを必要とする人たちの心や現実に少しでも近づいていこうとする継続的な努力なのでしょう。対応方針のレギュレーションとしてのマニュアルは当然必要ではありますが、その一歩先へと踏み出そうとする個々人の能動性が求められるのです。

では、もう一方の多数集合体「マジョリティ」の現状はどうかといえば、そこにはさまざまな経済的・商業的事情などが絡んでいることが見てとれます。とりわけ日本では、文化もファッションも社会のさまざまなルールも、間違いなくこうした“多数派”を中心に想定されているのが実状です。ほぼ単一民族でやってきた歴史的背景に依るところが多いとはいえ、個々に違う顔と人間性をもつ人たちを、得体の知れないキーワードで十把一絡げに考えることは、今日においてはさすがに乱暴な効率主義であるといえます。

迎合する者はたいてい嫌われる

マジョリティを語る上で思い出すのは、昨今やにわに耳目にすることが増えてきた「ポピュリズム」という言葉。ポピュリズムとはつまり、民衆の支持を得ようとする政治運動・イデオロギーのことです。民衆の権利を前面に謳うところから、体よく民主主義と混同されることもあるようですが、本質的にはまったく異なり、むしろ民衆の無知につけこむかのごとき策略的要素を多分に含むのがポピュリズムです。そんなわけで、民衆の一人としてはよくよく警戒しなければならないのですが、それでいて現代社会を跋扈しているのが誰あろうこのポピュリズムなのですから、まったくもって油断がなりません。

ところでこのポピュリズム、和訳すれば「大衆迎合主義」という不名誉極まりない別称(=蔑称)となりますが、作家や芸術家がもし大衆迎合主義などといわれたら、これはもう重大な侮辱です。民主主義という名のもと数の論理がまかりとおる政界や、売上最大化が至上命令のショービジネス界であるならば、そんな不名誉の外套に隠れほくそ笑むこともできましょう。が、真のアートを志す者はマジョリティの支持を得ればよいわけではないのです。

マジョリティの論理にうかうかと与すれば、その利得にあやかれるどころか、単なる骨なしの作品にも堕しかねません。そもそもクリエイターになる、作家になると夢抱く人が、流行り廃りにのるかのように顔も実体もないマジョリティを意識した作品を構想するのは、理想が低すぎませんか。しかも、売れ線を狙ったところでそう都合よく売れないのが世の常です。売れ筋とかトレンドを突いて作品を創ったのに、でも結局、マジョリティからもマイノリティからも見向きもされない……って、ダサくないですか。

もはや現代は「マジョリティ」「マイノリティ」といったボリューム意識で市場を量るのではなく、共通項をもつ人々の「ダイバーシティ(多様性)」について考えなければならない時期に来ているのです。――というと、社会の在り方を問う昨今の潮流そのままという感じではありますが、作家というのは本来、そんな潮流を巻き起こすべく“時代の切っ先”に立つ人のはず。この時代に「マジョリティ」「マイノリティ」言ってちゃダメダメ、「ダイバーシティ」言ってる程度でもダメ。その先にある社会の在り方を人民に示せる慧眼の士こそ、真の作家。理想高くいきましょう! これからの時代を見据え、ものを書こうとする者はどうあるべきか――。それを我が身に問うたとき、体を走る電流つまり信念や姿勢が、あなたの作品に堅固な芯を通してくれるはずなのです。

「声なき少数派」の生き方に学ぶこと

「サイレント・マジョリティ」という言葉があります。デジタル大辞泉によれば「声高に自分の政治的意見を唱えることをしない一般大衆」。そんな、ポピュリズムのかっこうのターゲットになりがちなこの“声なき多数派”に警句を贈るような一冊があります。そのタイトルも『サイレント・マイノリティ』。文庫本カバー裏表紙側の内容紹介文にはこうあります。

みずからのおかれた状況を冷静に把握し、果たすべき役割を完璧に遂行する。しかも皮相で浅薄な価値観に捉われることなく、すべてを醒めた眼で、相対的に見ることができる人間――それが行動的ペシミスト。「声なき少数派」である彼らの代表として、大声でまかりとおっている「多数派」の「正義」を排し、その真髄と美学を、イタリア・フィレンツェで綴ったメッセージが本書である。
(塩野七生『サイレント・マイノリティ』新潮社/1993年)

国家や民族の盛衰のなかで、異邦人、自由人でありつづけた行動的ペシミストたち。彼らの生き方は、マジョリティ・マイノリティ論、さらにはダイバーシティ論にどこか翻弄されているように見える現代にあって、創作する、ものを書く、あるいはメッセージを発信するということについて、ひとつの考え方を示してくれるものでしょう。

自分だけの目をもてば、何かが見えてくる

声なき少数派同様、人々が目もくれない事物に価値や美しさを見出す数寄者たちの目にも参考になるところがありそうです。たとえば、民衆の暮らしのなかで用いられる名もなき道具や器を軸に「民芸運動」を提唱した柳宗悦。

奢る風情もなく、華やかな化粧もない。作る者も何を作るか、どうして出来るか、詳しくは知らないのだ。信徒が名号を口ぐせに何度も唱えるように、彼は何度も何度も同じ轆轤(ろくろ)の上で同じ形を廻しているのだ。そうして同じ模様を描き、同じ釉掛け(くすりがけ)を繰返している。美が何であるか、窯藝(ようげい)とは何か。どうして彼にそんなことを知る智慧があろう。だが凡てを知らずとも、彼の手は速やかに動いている。名号は既に人の声ではなく仏の声だといわれているが、陶工の手も既に彼の手ではなく、自然の手だといい得るであろう。
(柳宗悦『民藝四十年』岩波書店/1984年 ルビは引用者による)

無名の工人のつくる工芸物にこそ美がある――とした柳の思想はのちに批判も呼びましたが、それまで鑑賞の目など向けられることのなかった生活用具に、審美し選択する新しい美の基準を与えたその功績は決して小さくはないでしょう。創作・創造に携わる者ならなおさら、そうした融通無碍な目と精神をもちたいものです。

もの書きには「思想」が必要、と先人は語る

かつて教科書に載っていた『阿Q正伝』という小説を、再び紐解いてみてもよいかもしれません。作者は、中国の思想家、魯迅。中国で初めて西洋的技法を用いて小説を書いた作家でもあります。『阿Q正伝』という作品は、簡単にいうならば民衆批判を主題とした物語です。民衆の代表者である主人公の卑小な生涯を描いた物語を通して、辛亥革命への批判を込め、民衆に新たな決意を促そうとしました。

……と簡単に書きましたが、考えてみてください。作家が自著の主たる購買層「民衆」を暗にも批判するということが、ポピュリズムが隈なく浸透した今日の社会においても起こり得るものでしょうか。しかし思想家魯迅は、作家として敢えて民衆を批判し、そして彼らに未来へ繋がる道を見せようとしました。民衆側にもまた、その一種の煽りに呼応するだけの精神的土壌があったというわけです。両者が見せた『阿Q――』にまつわるこの事実、発表から100年が経とうという現代の日本社会に語りかけるものはとても大きいように思えます。

最後に「沖仲仕の哲人」と呼ばれた米国人エリック・ホッファーの、筋金入りの思想に満ちた言葉を贈りましょう。ドイツ移民の子として生まれ、孤独と困窮と放浪の日々を送りながら独学し、やがて大学で教鞭を執る身となったホッファー。原書が半世紀以上も前に出版されたその著書『現代という時代の気質』(柄谷行人訳/筑摩書房/2015年)で、彼はすべての民衆へ向け、鋭い警告を発すると共に大変暗示的な言葉を残しています。

知識人は権力を得ると、人間に対する深い不信をこうじさせる。彼らは互いを信用しないが、最も深い不信は一般大衆に対するものである。

人間を天使に変えることを望む救済者は、人間を奴隷や動物に変えようとする人非人に劣らず、人間の本性を憎むことになるのだ。

時代を超える「真実の作品」を書きたいと願うならば、その願いを真摯に保ちつづける姿勢こそが、輝かしい作家の道を照らしてくれることでしょう。その道を歩む者は、安易にマジョリティの論理に与してはなりません。ポピュリズムに踊らされない知識と精神だって養う必要があるでしょう。そのためには、筆致がどうのという以前に、一本背骨のとおった思想が求められます。

創作とその成果物を介して、あなたはいったい何をなし遂げたいのでしょうか。どんな変化を自分を含めた誰にもたらしたいのでしょうか。そんな最高に原初的な問いの上に、自分のテーマ、作品の方向性を見定め、まずは文机に臨む姿勢を整えたいものです。

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