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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

幸福の原理――「ナベにフタ」

2018年09月27日 【小説を書く】

「幸福」の観念をカン違いしてはいけない

突然ですが「恋愛」してますか? ちょっと面食らったあなた、あるいは自分は既婚者だからと心にフタしたあなた、あなたのうしろには誰もいません。心うちを覗き見ることのできる魔法使いなんていません。素直な心情でまっすぐに自分を見つめたとき、スッと思い浮かぶ見目形があるのではないですか? たとえそれが片恋慕だとしても、許されざる恋だとしても――。

とまあ、困らせる質問はさておいて「幸福なカップルの誕生に欠かせない条件」、これは何だと思いますか。情熱? 思いやり? 最上級の愛情? いえいえ、それらは胸ときめくロマンスには相応しいとしても、「幸福」を約束するものではありません。なぜなら灼熱の恋や初々しい初恋に伴う幸せな感情は、真の幸福感とは似て非なるもの、一方通行に終わるかもしれなかった想いが叶えられたことへの満足感でしかないからです。では、温かく胸を満たす真の幸福へと導くのは何かと問えば、それは互いの足らない部分を受け止められる者同士の出会い、「破れ鍋に綴じ蓋(ワレナベニトジブタ)」の原理にほかなりません。ま、なかには異論を唱える方もいらっしゃることでしょうが、もとより真に幸福なふたりの関係性について深く考察することは、もの書きになりたいと志立てる者にとってはおおいに有益な時間となるはず。真正面から取り組んでおきたいテーマでもあります。

「破れ鍋に綴じ蓋」のことわざは、ご存じのとおり「似た者同士」の意を表し、どんな者にも相応しい伴侶がいるという喩えです。では逆に、自分はまだそういう境遇にない、誰にでも存在するはずの相応しい相手と結ばれていないという現実が眼前にあったとしたら、それは何を表すものか。ええもちろん、出会いに恵まれていないだけというのも充分に考えられますが、ちょっとゾッとしてしまうのが、無二のパートナーであったはずの人物を、自分がそれと見極められずスルーしてしまったんじゃないかという悲劇。一定の年齢を超えた男女で独り身であれば、過去を振り返ればひとつふたつの顔が思い浮かぶのではないでしょうか。でもまあそれが運命というものであり、その綾こそが物語の起伏をなすわけですが、どんな作家志望者だろうと、自分の人生の不遇を小説の題材視して喜べる方はなかなかいないでしょう。そんな運命の罠に陥りかねない現実を回避するためにも、作家志望者たる者、本稿で示す「ナベにフタ」のパートナー関係には正しい眼を備えておきましょう。実人生においても創作活動においても、その成果を最大に活かしたいものです。

必修! 使い込まれた色艶放つ「ナベフタ」物語

道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福(おたふく)人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫(めおと)の意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。
(織田作之助『夫婦善哉』新潮社/2000年 ルビは引用者による)

芸者上がりと商家の若旦那、夫婦ふたりの紆余曲折を描いた織田作之助の『夫婦善哉』は、適齢期前の若者にはなかなか理解しにくい小説かもしれません。甲斐性なしの夫は商売に手を出しては失敗し、何かといえば女房の稼ぎを芸者遊びに注ぎ込む始末で、ちょっとした修羅場には事欠きません。不毛で馬鹿馬鹿しい、別れりゃいいじゃん――あなたが若ければそう感想を述べるかもしれません。だいたい時代錯誤だろ――あるいはそう反駁するかもしれません。しかし、時代錯誤?  いいえ、それは大きな心得違い。いまもむかしも「人情物」には必ずといっていいほどダメ夫と泣かされ妻が登場するもの。ある種、そうした夫婦像の原型はオダサクにあるといっても過言ではないのですから、オリジナルには相応の敬意を払いましょう。逆に、馬鹿々々しいと見下していた夫婦の平凡な日々の物語が、ある日しみじみと胸に沁みてきたとしたら、読み手・書き手としての成熟度が増してきた印。諍い涙しながらも、それでも同じ時間を過ごし笑い合う男女の、得体のしれない“ごにゃごにゃ”とした幸福の秘密を追究する時合の到来といえましょう。『夫婦善哉』にはまた大阪の街と関西弁がよく似合います。そうした舞台設定を探るにも『夫婦善哉』は恰好のテキスト、まさに「破れ鍋に綴じ蓋」の原理を学ぶ上で必修の一作なのです。

「悪妻」と謗られた文豪夫妻の真実

文豪を一般的夫婦像の事例として挙げるのは恐れ多いかもしれませんが、考えてみれば、夫婦関係の密度を論じるに庶民もセレブも文豪もありませんね。それどころか「破れ鍋」的夫像を彷彿とさせる著名文士ときたら、いやもう、ぞろぞろと名前が挙がってくるほどなんですから。しかしそんななかでも、さすが(といってよいのか)稀代の文豪、夏目漱石は破れ鍋夫とはいえ家庭をぶち壊すような破壊的な問題夫というケースとはまた別の、大変に興味深い夫婦関係を結んでいたのです。子だくさんなふたりの結婚生活は、漱石の死までおよそ20年におよびました。

そもそも夏目夫妻にあっては、漱石の妻・鏡子の方が「悪妻」として名高かったわけですが、近年の研究や証言では、漱石の支持者・心酔者たちによるなかば作為的な中傷であったことがわかってきました(ジェイムズ・ジョイス然り、トルストイ然り。文豪の妻にはよくあること)。鏡子夫人は確かに素っ頓狂なところはなきにしもあらずだったようですが、躁鬱病か統合失調症患者であったといわれている漱石のDVに耐え、離婚も考えずに夫を支えてきたむしろ良妻であったと考えられています。

植松三十里の『猫と漱石と悪妻』(中央公論新社/2016年)には、20年に亘る結婚生活の実際、常に山あり谷あり波乱含みであるも、互いへの情愛を失わなかった夏目夫婦の姿が映し出されています。その漱石像はまた、雲の上に鎮座まします大文豪の威光を解いたひとりの小説家、夏目漱石。漱石という人間を理解するうえでは、ずっと精彩ある姿に間近で接することができます。85歳まで生きた鏡子夫人が、夫亡きあとしばしば漱石の不在を惜しんだという逸話が心を和ませてくれる、まぎれもない「ナベフタ」夫婦伝と認定されます。

人はおしなべて「ナベ」であり「フタ」である

今日のこのおだやかなひととき、ひとときの延長線は、彼女の言うように、間もなく断ち切られてしまう。(中略)葬送の日のたった一つの心の寄りどころは(来世)という想像もつかない虚空の一点で、今日と同じ笑顔で、今日と同じやさしい眼で、今日と同じ見なれた着物を着て待っていてくれる人がいることを、信じるほかはないのだ。
(沢村貞子『老いの道連れ――二人で歩いた後十年』岩波書店/1995年)

なかにはナベやフタ呼ばわりするのは憚られる、貝合わせのごとき一対を思わせるカップルもいましょうが、彼らの関係とて初めから完璧であったわけでは決してありません、いやあり得ません! それはパートナーを無二の相手と信じる思いを日々確認するように、ときに耐え、ときに自らを省みながら、長い歳月のなかで育まれてきた結果にほかならないのです。名女優と謳われた沢村貞子(長門裕之・津川雅彦の叔母)はエッセイでも定評があり、晩年の著作『老いの道連れ』は、内縁の期間も合わせ50年間連れ添った夫婦の記念にと、交互に思いを連ねていく形で書き綴られるはずでした。ところが、その矢先に夫が急逝、沢村は茫然自失としたまま、独りでふたりの歩みを回想することになったのです。本作は、完璧なように見える夫婦、けれど、初めから完璧にマッチするパートナーの組み合わせなどあるはずもない、そもそも疵のないナベやフタなどないのだ――と切なく、愛おしく、教えてくれる一冊です。沢村は、悲しみと喪失感の隠しようもない夫婦の記念碑的作品を無事刊行してからおよそ1年後、夫との最後の約束を果たせたことに自ら納得し頷くように、静かにこの世を去りました。

「ナベフタ」物語に描くべきは「長い会話」

「破れ鍋に綴じ蓋」の物語を読むと、パートナー関係も幸福も一朝一夕にできあがるものではなく、また、それらを手に入れるためには、互いの人間的な成熟や成長も同時に欠かせないという事実に思い至ります。換言するならば、そうした物語をモノにするには、書き手の成熟という要素がおおいに関係してくるというわけです。「最高のマリアージュ」といわれるような意表を突くコラボレーションや、意外にして絶妙な食材の組み合わせなどが、カップルの関係性に喩えられることもままあります。しかし、意外なマリアージュが“瞬間的な最高値”を叩き出すことはあっても、より“確かな安定値”は、長年に亘ってつづいてきた関係こそがつくりあげるものだといえそうです。

最後に引きたいのは、哲学者ニーチェの「夫婦生活は長い会話である」という言葉。箴言が醸すものものしい響きの割にニーチェ自身は生涯独身でしたが、「会話」という一方通行ではないコミュニケーションの喩え、それが長くつづいていく間柄こそ、真のパートナー関係であろうと共感ができます。つまり「破れ鍋に綴じ蓋」の好一対の幸福を描くためには、この「長い会話」をいかに表現するかがポイントになってくるのではないか、ということです。夫婦にしろ同棲カップルにしろ、愛情を基盤に日常をともにする人間関係のなかでは、相性、似た者同士といった共通項が浮き彫りになっていくのは確かなところ。それを互いに認め合う暮らしのなかで精神が満たされることこそ、真の幸福といえるのではないでしょうか。夫婦について一家言述べた(生涯独身の...)ニーチェ。その高名な哲学者の言葉をヒントに、人と人との最良の結びつきについて思い巡らせてみることを、作家になりたいあなたには強く強くお勧めいたします。そして恋愛を、してください。心を焦がした数だけ、あなたが描く物語にはひと刷けふた刷けと色が塗り重ねられていくはずです。