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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

「書く動機」が発動するタイミングを待て!

2018年11月09日 【小説を書く】

その「動機」は本物ですか?

人はなぜ山に登る? だってそこに山があるから。と言ったのは、登山界のレジェンド、ジョージ・マロリー(本意は"Why did you want to climb Mount Everest?"に対する回答"Because it's there."なので「そこにエベレストがあるから」か。)では、あなたに質問です。なぜものを書く? の問いにはなんて答えますか? だってそこに紙があるから――なんて人はまずいないでしょう。落書きや長電話中の手すさびじゃないんですから。では、人はなぜものを書くのでしょう? この問いはすなわち「動機」を探る言葉にほかなりません。

というわけで今回は、作家たち、作家の卵たちを執筆・創作へと導く「動機」についてのお話です。念のため初めに確認しておくと、「動機」とは「人が行動を起こしたり、決意したりする時の直接の(心理的な)原因・きっかけまたは目的」(大辞林/三省堂)と辞典にあります。要するに、不意に、ピンポイントに生じる現象なわけですが、“ものを書く”という行為を俎上に載せたとき、この「動機」からすぐにも作品が引っ張り出せると考えるのは、あまりにも安易に過ぎるというもの。たとえるならそれは、石に躓いて転んだことに腹を立て、石を悪役にした物語を書くも同然のことなのですから(何かしらのインスピレーションになり得ることはなきにしもあらず、ですが)。

つまり、動機の発芽ごときで踊り騒ぐ勿れということ。鼻息荒く「おれは作家になる!」と正月に親族一同および神の御前で宣言し、お屠蘇も控えてパソコンや原稿用紙に齧りつくなんてのはもってのほか。動機はそりゃ大事、動機こそがもののはじまり。しかし、ある意味で一時のパッションとも呼べる瞬間的に湧いた動機が、実質的な表現活動「執筆・創作」を促して発動するまでには、長い熟成の時間があると見て然るべきでしょう。にわかな動機など萎えるほどの時間となるかもしれません。

小説家、作家になりたいと思うのであれば、書くことに正面から向き合うことは当然必要です。ただ、遮二無二書いては棄て、賞に応募しては落ち――を繰り返し、自分がいったい何をやって何をなそうとしているのか、その天地すら怪しくなってきたような気がしてきたときは、ちょっと肩の力を抜いてみてください。今回取り上げる先達のエピソードのなかに、彼らの動機やその熟成の経路を探ってみれば、作家の成長や思考の道筋、また作品が成形されていく過程を透視することがきっとできるはずです。

性を通した自己発見で「動機」を育てた艶男

著作が猥褻であるとして発禁処分を受けること度々の性のツワモノ、ヘンリー・ミラーという作家が米国にいました。ニューヨークはブルックリンに生まれ育ち、職(とは呼べぬような生業も)を転々としたのちヨーロッパへ渡り、40を過ぎてパリで『北回帰線』を発表し作家としてデビューします。赤裸々な性描写の乱打ともいうべき『北回帰線』は、その前衛の度合いもあって当時の半数の作家に嘲笑され、半数の作家に称賛されました。称賛した側のひとりジョージ・オーウェルは、「1930年代中期で最も重要な本」と『北回帰線』を評していますが、ヘンリー・ミラーという作家誕生の軌跡こそ、アバンギャルドと呼ぶべきものだったのかもしれません。

おれは単に精神的に死んでいるだけだ。肉体的に生きているのだ。道徳的には自由だ。おれがいま別れてきた世界は檻にはいった野獣の見世物だ。いまや新しい世界の夜明けである。鋭い爪をもった、やせた精神が徘徊しているジャングルの世界である。もしおれがハイエナであるなら、それは、やせさらばえた飢えたハイエナだ。おれを肥らせるために、おれは前進する。
(ヘンリー・ミラー著/大久保康雄訳『北回帰線』新潮社/1959年)

自伝的な『北回帰線』にも明らかなように、ミラーの女性と性への関心は終生並々ならぬものがありました。結婚歴は生涯5回、最後の結婚は75歳のときで、50歳近く年下の日本人ジャズシンガー・ホキ徳田がお相手でした。愛人も数限りなく、けれどそのなかには、のちに「日記」で知られるようになる女流作家アナイス・ニンのように、ミラーに決定的な影響を及ぼした重要な存在がありました。そもそもミラーがものを書きはじめた動機は、アナキストでフェミニストのエマ・ゴールドマンと出会い、彼女にドストエフスキーを教えられ大きな衝撃を受けたことであったといいます。ドストエフスキーの世界観にどっぷり浸ったミラーは書きに書きまくり、やがてヨーロッパへといざなわれ、『北回帰線』が誕生します。もちろんドストエフスキーの描いた世界が、ミラーの作品にもそのまま投影されているとはいえません。しかしそのエッセンスを吸い上げた魂が、放蕩の日々を経たのちに『北回帰線』を描いたのだとすれば、ミラーの性の放浪は作家になるための通過儀礼であったといえるのかもしれません。

悪徳の思想を完成させた「動機」

「S」「M」といえばいまや小学生にでも意味がとおりますが、これを略さずにいうなら「サディズム(サディスト)」「マゾヒズム(マゾヒスト)」。日本語ならそれぞれ「加虐性欲」「被虐性欲」。いよいよ生々しくなってきましたね、つまり性嗜好そのものを指す言葉です。まずSの「サディズム」という語ですが、加虐性欲の創始者フランスのサド侯爵に由来します。一方Mの「マゾヒズム」は、肉体的・精神的苦痛が快楽に繋がると説いたオーストリアの作家レオポルド・フォン・ザッハー=マゾッホに由来します。

サド侯爵、やはりその名前が性的倒錯の名として後世に残るだけあって、生来の加虐趣味のもち主でした。当時とあっては危険人物とみなされたのでしょう(いやたぶんいまも...)、生涯の半分以上を牢獄と精神病院で過ごしています。そんな侯爵ですが、サディズムの聖典『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を描くまでには、やはり“書く動機”を促成する抑圧の期間がありました。いくつもの非道極まる犯罪行為によりたびたび牢獄に収監されているのです。彼はその檻のなかで、やがてフランス革命として爆発する、特権階級に対する民衆の怒りに充ちた時代の空気をたらふく吸い込みます。一心不乱に筆を執り、禁書となる小説を幾篇も仕上げていきました。監獄生活でサドは迫害を訴え恨みに燃えます。そうした幽囚生活のすべてが、サド侯爵の動機「悪徳」に磨きをかけ、やがて出獄した彼に、サディズム文学の金字塔『悪徳の栄え』を書かせたのです(しかしこの作品がもとになり再収監。以後、没するまで幽閉される)。

サド侯爵の狂気から生まれた『悪徳の栄え』ですが、のちにシュルレアリストに再評価される日がやってきます。日本にいおいても渋澤龍彦や三島由紀夫らに評価されたのは、フランス革命前後の時代にすでにサド侯爵が“悪”の思想を哲学として明晰化していたからにほかなりません。彼の時代から100年以上を経て、フランスのジョルジュ・バタイユが、エロティシズムにおいても社会においても“悪”こそがその本質を見る鍵、と説きました。悪徳の思想を宿して生まれ落ちた人物の魂が、獄中での体験を経てどんな変質を遂げいったい何を醸成したのか、それはサド侯爵の幽囚の日々を想像してみるほかないのでしょう。

いつか芽吹き育っていく、それこそが真の「動機」

司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』には、ある小説執筆の動機を語った興味深い一文があります。それは南予地方(愛媛県南部)と西土佐の旅路でのこと。司馬の思いは松山に生まれた俳人・正岡子規と、子規に兄事した高浜虚子の交流へと及んだのでした。

松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処(そこ)へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣(や)っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。(中略)その人の風采は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯(へこおび)を緩く巻帯にし、この暑い夏であるにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板(まないた)のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。(中略)そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
(高浜虚子『回想 子規・漱石』岩波文庫/2002年 ルビは引用者による)

司馬遼太郎は虚子のこの文章を、太平洋戦争半ばの1943年、学徒出陣で戦地へ向かう前に読み、戦後再読したとき、そこから抑えようもなく広がったイメージが、近代国家として歩みはじめた明治日本の姿を描いた『坂の上の雲』の決定的な執筆動機になったと語っています。『坂の上の雲』は、日清・日露戦争で功績を挙げた松山出身の秋山好古・真之兄弟、真之の親友であった正岡子規の人生を絡めながら時代を追って描かれます。「坂の上の雲」とは、青春の輝きと時代の昂揚感をなぞらえたものでした。少年の虚子と子規の出会いはおそらく1880年代の終わり、秋山真之が士官学校生、兄・好古が青年士官だった頃合でしょう。司馬が虚子の文章にイメージしたのは、やがて躍動する舞台で花開いていく者のかけがえのない青春の輝きであったはず。『坂の上の雲』の連載が開始したのは1968年のこと。かつて司馬の脳裡に瞬いた青春の輝きは、人類史上最大かつ最悪ともいえる昭和の世界戦争と、焦土からの再生の二十余年を経ることで、いっそう眩しく作家魂を惹きつけていたに違いありません。やがて彼の代表作となる物語のひとつが生まれたのも深く頷けます。

行動にも創作や創造においても、“はじまり”には常に動機が存在します。「動機」と付帯して「性急」とか「浅薄」とか「短慮」とか非難めいた語が並ぶことも多くありますが、こうした非難を受ける事態は、「動機」と「物事のはじまり」の関係が、あまりに短絡であるがゆえの結果であったと考えられます。それどころか、もっと取り返しのつかない「愚行」やら「失敗」やらの原因だって、その短絡さに由来しないとは限りません。とりもなおさず動機とは、作家を志す者にとって、栄光の一歩にも失敗の理由にもなる、ゆめおろそかにしてはならないものと考えられます。もとよりそれが「真の動機」であるなら、必ずやいつか芽吹き育って確かな形をなしていくはず。創作者たる者そう信じ、どんな時間も境遇をも耐え忍ぶ覚悟が必要だということです。いつの時代もどこの世界でも、夢を掴むのは自分自身を信じ切った確信犯だけなのですから。