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「ナンセンス」に目からウロコの創作術

2019年02月01日 【作家になる】

まずは「ナンセンス」の文学的歴史を辿る

「ナンセンス文学」と呼ばれるジャンルがあります。直訳すれば「意味のない文学」「ばかげた文学」ということになりますが、実際のところはむしろ逆で、“意味”を過剰に詰め込んで、ある種のユーモアを醸し出す文学――と見るほうが正しいようです。

ナンセンス文学の発祥はイギリス。そのルーツを遡れば『マザー・グース』などの民謡集に辿り着くといわれます。そしてヴィクトリア朝の1846年、民謡集に繰り広げられた言語遊戯を引き継いで、画家のエドワード・リアが『ナンセンスの絵本』を刊行。ジョージ・オーウェルの意見でも、これがナンセンス文学のはじまりとされています。

そのおよそ20年後、ナンセンスなユーモア感覚に満ち満ちたルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』を発表したことで、さらにナンセンス文学は広く世界的に認知されるに至ります。必定、ナンセンス文学には、英国的なウィットとユーモアの血が脈々と流れているわけです。「ブリティッシュ・ジョーク」などという言葉もありますが、そうした土壌を知るだけでも、作家になるべくユーモアとナンセンスに磨きをかけるための有益なヒントが得られるというものでしょう。

五行詩に学ぶ「ナンセンス」の基本と神髄

鳥類図で有名なエドワード・リアは、ヴィクトリア女王に手ほどきをしたことがあるほどの腕前の写実画家。そんな彼がナンセンスによそ見をしたのは、羽毛の一筋一筋を描くごとき細密タッチに嫌気が差したからかどうかはわかりませんが、ともかくあるときを境にナンセンスな絵と詩を創作するにおよんで、この仕事にすっかり愛着をもってしまったようです。リアの『ナンセンスの絵本』は、「リメリック」(押韻による五行詩)と呼ばれる詩にそれぞれ滑稽味のあるイラストを添える形で編まれていて、絵も詩も、鳥類図鑑の描画からはまったく想像もつかない独特のユーモアセンスに溢れていました。

おやじさんの生れはウィーン
センナのエキスをご愛飲
  ところがそれが気に入らなくちゃ
  ちびちびやるよカミツレ茶
なんだか性根がとっても陰
(エドワード・リア著・柳瀬尚紀訳『ナンセンスの絵本』岩波書店/2003年)

うーん、さっぱりわかりません……。それはさておき、「ウィーン」の「イン」をA、「チャ」をBとすると、五行をA・A・B・B・Aで韻を踏む構成がリメリックの特徴です。そうして、軽やかな韻を踏む日本語訳も見事なこの詩に添えられるのは、本稿冒頭の画像の右側、青いエリアにいる、体によい飲み物にひたすら命を懸けているふうな覇気のないおじさんのイラストなのでした。もうひとり、こんな「おっさん」も登場しています。

おっさんたまたま子供の頃に
やかんに墜落まあもろに
  ところがからだが次第に肥えて
  抜出すことはもう不得手
おっさん生涯やかんの甘露煮
(同上)

こちらの訳詞でもA・A・B・B・Aの韻が冴えています。こちらは冒頭画像の左側のイラストを見ると、やかんを住処とした「おっさん」は、狭くも楽しいやかんの我が家に「どうだー」と言わんばかりの一見揚々たる面持ちですが、ナンセンスの風味が凝縮したリアのリメリックを読むと、そのヤケッパチな本心に何とはなしに触れることができるのではないでしょうか。詩行を見るなら、特に五行目の“落とし方”にはよくよく注目したいところです。それにしても「甘露煮」は名和訳……。

「ナンセンス」と「ファンタジー」の類似と相違

しかしナンセンスの独特の可笑しみとは何なのでしょう。そのユーモアが、他のユーモアとはまったく異なる風合いであるという点に着目すると、なんとなく謎が解けてくるようにも思えます。ナンセンスが芸となる場合、そのユーモアが生まれてくる世界に明確な定義があります。逆にいうと、その背景をもたないナンセンスとは、直訳どおりのばかげた話でしかありません。たとえば、私たちは日常で「そりゃナンセンス」「意味不明」といった表現を使うこともあれば聞くこともありますが、これはどう考えても賛辞ではなく、文字どおり、意味の通じないバカバカしさを非難げに一蹴する場面でのことです。ナンセンスが称賛や脱帽の域に至るのには、ある種のアウフヘーベン、いまでいうと一周まわって……という感触が必要なのです。さしづめそれは、深遠な思想世界に根差した芸術ジャンルということになるわけなのです。

また、「ナンセンス」と「ファンタジー」を比較することでよりナンセンスの輪郭は明瞭になります。ナンセンスとファンタジーはときに同義的に扱われることもあり、そこには確かに類似があるのですが、明らかな相違もあります。簡単にいってしまうと、現実には存在し得ない生物や世界が描かれていたとして、その世界観に論理的な説明が付与されているのは「ファンタジー」、論理なんぞお呼びでないとばかりの混沌世界であれば「ナンセンス」というわけです。たとえば『不思議の国のアリス』でアリスが飛び込んだ世界は、アリスの夢のなかの出来事ですから、現実的な脈絡も論理性もありません。その世界で、帽子屋のハッターはアリスにこんな質問をしています。

“Why is a raven like a writing-desk?”
(カラスと書き物机が似ているのはなぜだ?)

考えるより先に「似てねーよ!」と突っ込むしかない、まったくもって珍妙な質問です。アリスはわからないと降参し、解答が披露されるかと思いきや、帽子屋は自分にもわからないと答え、はなから答えのない問いであったことが明らかになります。これがすなわち、ナンセンス文学のユーモア。ただしそこはやはり『不思議の国のアリス』、これでは終わりません。読者を単に煙に巻いたようでいて、やっぱり何か答えがあるんでしょう? と知的な想像の余地を残しておく憎さがまた秀逸なのです。事実、初版の1865年から30年以上が経った1896年の版から入ったキャロルの序文には、このような後づけの解答が書かれています。

“Because it can produce a few notes, though they are very flat; and it is nevar put with the wrong end in front!”
(カラスと書き物机はどちらもほんのちょびっとのnote(カラス/=鳴き声)(机/=文字)をうみだすが、(うみだされた)それはとてもflatな(カラスの鳴き声/=抑揚のない)(うみだされた詩作/=退屈な)ものである。そして決して間違って後ろと前をひっくり返して置くことはできない)
出典:日曜日のディストピア ※とてもわかりやすい解説をされています。

ちなみにこの『不思議の国のアリス』、初版時の制作費は挿絵代も含めすべてキャロル自身が負ったそうです。コンテンツの自主制作が盛んな昨今、なんとも勇気づけられるエピソードではありませんか。

現代のナンセンス文学、進化の道筋を予測する

ナンセンス文学は、進化、あるいは時代に合わせて変容していくものです。今日のナンセンス文学は、民謡集はもとより、リアの『ナンセンスの絵本』やキャロルの『不思議の国のアリス』を通過して、さらに現代的な形を模索していくことが課題といえるでしょう。例を挙げれば、『ゴドーを待ちながら』など不条理劇を書いたサミュエル・ベケット(当ブログ記事:『創作を深化させるエレメント「形而上」』参照)の仕事などはそのひとつの方向性を示しています。

ただ、なんといっても20世紀ナンセンス文学の最高峰として挙げるべき一作は、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』。ジョイスこそは、キング・オブ・ナンセンス文学の名に恥じない作家といえるでしょう。若いころにジョイスと出会い交友を結んだベケットにしたって、薫陶レベルかどうかは当人しかわかりませんが、ジョイスの影響をまったく受けなかったというのはちょっと考えられません。

おまえはノアの方船から羽ばたき出てきたいちばんの妙ちくりんな老雄鶏の抜け作なのに若雄鶏ぶってのさばり歩く
鶏たちよ、立て! トリスティは潑剌と若々しくスパーク
彼女を押さえて娶って床入れして赤く突く
羽根の尾ひと振りすることもなく
こうしてあいつは羽振りよく財を築く!
(ジェイムズ・ジョイス著・柳瀬尚紀訳『フィネガンズ・ウェイクII』河出書房新社/2004年)

またもやさっぱりわかりませんが、それはさておきジョイスは、アイルランド民謡の『Finnegan's Wake(フィネガンの通夜)』――屋根から落ちて死んだはずが通夜の席で蘇った大工フィネガンの話――にこの作品の着想を得たといいます。「wake」の英語での意味は「目覚め」、ゲール語での意味は「通夜」。つまりここに来てジョイスによる『フィネガンズ・ウェイク』には、「フィネガンの死と再生」という哲学的な意味が与えられるというわけです。彼はそれを“人類”の広壮かつ長大な意識に準えたのです。

読んで文章を論理的に理解する「識字」という人間活動の標準的な理解の斜め上を行くジョイス。そんな人物が書いた、居酒屋の主人一家の一夜の物語に神話モチーフや人類の歴史を重ねた『フィネガンズ・ウェイク』は、はっきりいって難解です。しかし10年以上に亘って執筆がつづけられたこのジョイス最後の小説が、彼の文学的試みやテクニックを符牒・暗号のようにちりばめた集大成であることは間違いありません。ナンセンス文学に自己の文学的到達を示したジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、まさしく作家志望者が心して対峙する価値ある作品といえましょう。

「ナンセンス」それは作家を志す者の知的探検世界

ところで、もうお気づきかと思いますが、『フィネガンズ・ウェイク』もエドワード・リアの『ナンセンスの絵本』も、訳者は柳瀬尚紀氏。さらに、なんと氏は『不思議な国のアリス』も翻訳しているのですから、本稿を書く筆者としても軽く驚きました。これはむろん単なる偶然ではなく、氏の専門や志向の延長線上に「ナンセンス」が横たわっていることによる必然的な結果なのでしょう。が、こんな符合は滅多にありません。ひょっとすると、こうした出来事にナンセンスの新鮮な切り口や人類の営為のテーマを探ることだって可能なのかもしれません。探るといったって、参考文献を渉猟する必要もない、深遠な考察に痩せ細るリスクもない。となれば、本を書く志抱くあなたが、伸び伸びと気ままにナンセンスの知的世界を遊ばない手はないではありませんか。何たってナンセンスの根幹にあるのは、機転と自由な想像力がものをいう、ウィットとユーモアなのですから。

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