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目覚めよ、創造のDNA

2019年02月22日 【小説を書く】

「創作」を生業とすることの難易度

あいつ、クリエイティブ系好きなんだよね……みたいなことは、そこはかとない嘲笑混じりによく言われます。とりわけ日本では、横文字へのコンプレックスがあるのかチャラついて見えるのか、カタカナ職業となると人の目はいっそう冷ややかです。デザイナー? ライター? フォトグラファー? 世の中そんな甘くないぜ、と。つまり、クリエイティブな仕事への憧れをもつのは、ごく一般的な志向であると誰もが認めつつも、その世界で食い扶持を稼ぐとなると、それはそれは難しいことだと誰もが承知している証でもあります。

この難易度は、もちろん作家・文筆家などと呼ばれる文章系のクリエイティブ稼業もご同様。作家になりたいと思う者はあとを絶たずとも、志を遂げるのはほんのひと握りである冷徹な現実は、当の夢追い人にとっても深刻なジレンマであるはず。だからこそ燃えるんだ! なんて日もそう長つづきはせず、結果の出ない挑戦の日々に挫折し、己の不運に打ちひしがれ、あるいはダメもとやっぱりネ……と過去の自分すら否定し、あっけらかんと別の道を探すことになります。そうして彼らは呟くのです。だってしょうがない、才能がないんだから……

「大器晩成」を成す魔法とは

何ごとにも才能のある・なしの影響は歴然とあり、人の資質に差があるのも事実。そのいっぽうで、才能なしのレッテルを貼られた人物が思いもかけず大化けし、「大器晩成型」なる遅れてきた栄誉を得ることだってあります。彼に何が起こったのか? 40過ぎて才能の芽が突然伸びたのか、頭でも打ったのか、替え玉なのか、それとも努力の賜物か!? これら4つのうちから強いて選ぶなら「努力」が遠からず近からず、でしょうか。

誰もがそうであるとはいいません。誰もが等しく才能を眠らせているとはいいません。けれど「大器晩成型」とは換言すれば、眠っていた才能が目覚め形を成したことの顕れであり、それがあなたの身に起きないとは限らないのです。だから、才能がないとあっさり引き下がる前に、“努力”に近いことをしてみるようおすすめします。これはひたすらに作品を書きなさいといったスポ根論ではなく、あなたの細胞内に眠る「創造のDNA」を刺激するために。機能しなくなった神経の働きを取り戻そうとするかのごとく、電極を当て、ツボに鍼打ち、正しく適切なところを刺激しつづければ、いつか大きな器も焼ければ大輪の花も咲くかもしれないのです。

モノを生みだす“日常”に問う

では、「創造のDNA」を正しく刺激する方法とは何か? そのひとつは日常的に「創造」のスイッチを入れておくことです。たとえば、「字を書くこと」を思い浮かべてみましょう。かつて創造性をもつ生物は人間だけといわれてきました。「かつて」というのは、いまでは他にも創造的な行動をとる動物がいると考えられているからです。しかし、やはり人間様は偉かった! なぜなら、意思疎通を可能とする「文字」を発明したのは、人間だけだからです。これを創意といわずして何をいいましょう!

さて、その「文字」ですが、平安貴族から明治の番頭さんまで、その昔、見事な文字を書く人は大勢いました。水茎麗しい草書から雄渾な筆致、戦国武将や名君や明治維新の志士たちの書は、その生き方や人間性まで表すといわれたものです。中世ヨーロッパでは、カリグラフィと呼ばれる飾り文字で皆が手紙を書きました。ナポレオンだって書きました。一文字一文字が、カットイラストを描くほどの手間で、それだけ当時は文字に込める創意と感性が重要視されたのです。

そうして生まれた数々の「書体」は、印刷文化を牽引しました。ローマン体とかボドニ体とか、タイポグラフィと呼ばれる印刷文字を創り出したのは、デザイナーではなく活字職人。これを創造性といわずして何をいいましょう! いささか活字愛が溢れ過ぎている気がしないでもありませんが、誤解してはいけません。字のヘタウマを問うているのでも、カリグラフィを書けといっているのでもありません。字や、その他日常の創造的になり得る行為に、あなたがどんな意識をもっているかと問うているのです。美しい花々や絵画や写真だけでなく、書体のような、誰も目に留めない「何か」にほれぼれする瞬間が、この1週間のうちにありましたか? もしないのだとすれば、その感覚を意識的に取り戻すことからはじめましょうよ、ということなのです。

原始的創造性と“いま”を繋ぐミッシングリンク

縄文土器にふれて、わたしの血の中に力がふき起るのを覚えた。濶然と新しい伝統への視野がひらけ、我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知ったのである。民族に対してのみではない。人間性への根源的な感動であり、信頼感であった。
(岡本太郎『日本の伝統』光文社/2005年)

弥生土器がのちの時代とひとつながりになる様式や装飾性をもっていたのに比べ、縄文土器は似ても似つかず独創的です。もちろん、気の遠くなるほどの長い時間的隔たりがその差の理由でもあるはずですが(縄文時代は紀元前1万5000年〜、弥生時代は紀元前1000年ごろ〜)、縄文期に後世に滅多に見られなくなった自由奔放な原始的創造性があったことは間違いありません。縄文土器には長く学術資料的価値しか見出されてきませんでしたが、戦後、岡本太郎がその斬新な造形と装飾に驚愕し絶賛したことから、芸術的価値についても認められるようになり、現金なことに、国宝に認定される遺物まで現れたのでした。

永劫の時間のなかで失われてしまった創造的な感性とは、いったいどのようなものなのか――そんなふうに思い馳せることだって、「創造のDNA」が脈打つきっかけにならないとはいえません。縄文土器のみならず、上に挙げたいくつかの例と、現代の一般的感覚のあいだにミッシングリンクがあることは確かと思えます。単なるクリエイティブ好きに終わらず、真に作家を目指そうというのであれば、このミッシングリンクに想像力を働かせ、自身の内部に眠る仮死状態の細胞に刺激を与えることが肝要です。それぞ「創造のDNA」を目覚めさせる秘策なのではないでしょうか。

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