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「青春小説の金字塔」の真実

2019年05月24日 【小説を書く】

「青春」は眩しく瑞々しいばかりではない

J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』という小説は皆さんご存じのことでしょう。1951年の初版以来6000万部以上を売り上げ、いまなお年間50万部が新たに読まれているという、永遠の青春物語、青春小説の金字塔と誉れ高い一作です。――ところが、です。よくよく世間の言葉を聞いてみると、そんな数字と輝かしいフレーズとは裏腹に、“青春”の部分に同調できなかったり、主人公に共感できなかったりと、評価が芳しくない向きも少なくないようなのです。これはどうしたことでしょう。

もとより、サリンジャー自身は「青春小説」のレッテルへのこだわりなどまったくなかったはず。しかし評価が分かれてもなお“バイブル化”したのには、それなりの理由があるに違いありません。何しろ青春とは、青かろうが真っ黒だろうが、誰にも等しく訪れるもの。ジャンルを問わず永遠のテーマです。そんな青春を描いた物語の真髄を考えるためにも、今回はこの「青春小説の金字塔」について検証してみたいと思います。

一度でも読まれた方ならおわかりかと思いますが、『ライ麦畑』は「瑞々しい」とか「活気に満ちあふれた」とかと形容される、青春期へのオマージュ的作品ではありません。むしろその逆で、あの青い季節特有の鬱屈した心理(大人になるとすっかり忘れてしまう)をリアルに描いた作品です。主人公の17歳の高校生ホールデン・コールフィールドは、「大」が付く問題児。クリスマス前に高校を退学になり、腹を立て文句を垂れ流しながらあてどなく街を徘徊します。本作は、その数日間の出来事を主人公の一人称の語り口で綴っていく、ストーリーらしきストーリーのない、いわば日記を立体化したかのような物語なのです。

若き“アンチヒーロー”は、あの日のあなた

もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生れたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったかとか、僕が生れる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デヴィッド・カッパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。

(J・D・サリンジャー著・野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』白水社/1985年)

さてホールデンくん、話しはじめるやディケンズの『デヴィッド・カッパーフィールド』に噛みつき、「くだんない」と切って捨てる暴挙。なにしろホールデンにとって社会は「インチキ」の塊。教師にもクラスメイトにもうんざり。目にする誰彼となく見下し高飛車な態度を取りますが、たかだか17歳の少年の思いどおりにことが運ぶわけもなく、いよいよ鬱憤を募らせ、いよいよ暴挙は度重なります。……と聞けば、何だよどうしようもない主人公じゃないか! と反感を抱く向きがあるのもむべなるかな。むしろ、どこが青春小説の金字塔なんだと。

『ライ麦畑』に共感できないという人々の声を拾ってみましょう。主人公は口汚くて子どもに読ませたくない、ウダウダと文句ばっかりいって埒(らち)が明かない、周囲を敵視しているただの甘ったれだ――。無論、小説をどのように読みどのように感じるかは読者次第、それでよいでしょう。ただ、小説はときに口汚い甘ったれの少年を描くことだってあります。そこに書かれている文字を目で追い、登場人物の人となりを理解するばかりが読書というわけではありません。外見からは窺い知れないその奥の、人物の内面を透かし見ることにこそ小説のおもしろさや感動はあるのでしょう。『ライ麦畑』のホールデンに当てはめてみれば、確かに口汚いただの甘ったれであるかもしれないけれど、その奥底には本当の自分を見せまいとしている彼がいます。それは、現実に戸惑う純粋さと不器用さをもった繊細な少年。誰もが大人になる前に一度は抱く“未熟以上成熟未満な心の状態”に、永遠に閉じ込められてしまったような人間なのです。

『The Catcher in the Rye』原題の真意

とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。

(同上)

ホールデンがただひとり心を許している妹のフィービー(もうひとり弟のアリーがいたが死んでしまった)は、兄に業を煮やして「なりたいものはないのか?」と叫びます。するとホールデンは、馬鹿げているとはわかっている、と言いながら、“The Catcher in the Rye(ライ麦畑の子どもの捕まえ手)”になりたいと答えるのです。ここで皆さん、はて……と思われたことでしょう。『ライ麦畑でつかまえて』の「つかまえて」とは、「つかまえてほしい」ではなかったのかと――。

原題と邦題の似て非なる同音異義的なギャップは、ファンのあいだでは有名な話です。村上春樹が新訳を手がける際には、文法ミスの誤訳の指摘を考慮して、タイトルを原題そのままに『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としました。しかししかし、それでいて『ライ麦畑でつかまえて』という野崎版の旧タイトルは、存外意味深く、この作品と主人公の本質を捉えるものではなかったかとも考えられるのです。なぜなら、ライ麦畑で危なっかしく遊び転がり落ちていく子どもの姿こそ、ホールデンを象徴的に表していますし、誰かにつかまえてほしい、そう願いつつもそれが叶えられないことを知ってしまった子どもとは、ホールデン自身であることは明白だからです。

賛否分かつ名作は、本を書きたい者の試金石

大人になるということは、無垢な心の白い部分にさまざまな色の汚れをつけていくこと。幸いというべきか、多くの人は、その汚れに対応する本能的な才覚をもち合わせて、歳を重ねていきます。だからこそ過去を振り返ったとき、少年時代は眩しく美しく、懐かしいのです。ホールデン・コールフィールドは、最後に精神科病棟で療養中であることが明かされます。大人になる才覚をもち合わせなかったホールデンには、救いは訪れないのでしょうか。けれど、回転木馬に乗るフィービーをずぶぬれのホールデンが見守るラストシーンに翳りはなく、むしろ、ホールデンは治療を受けることで未来に臨もうとしているようにも思えます。

さあ、『ライ麦畑でつかまえて』を、作家になりたいあなたはどのように読むでしょう。もしかすると「青春小説の金字塔」と呼ばれる小説は、読者が通り一遍の解釈に終わらずその心髄に辿り着けるか否かを測る、試金石のようなものなのかもしれません。

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