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漱石が見せた「心理小説」の伝統と革新

2019年07月26日 【小説を書く】

伯爵夫人から明治の文豪に至る系譜

「心理小説」として括られる小説の定義をあなたは説明できるでしょうか。あるいは、著名な「心理小説」のタイトルを(確信をもって)挙げることができるでしょうか。心理小説――フランスで誕生した小説形態の一ジャンル、名だたる作家たちの作品がそこに名を連ねるにも関わらず、自信をもって説明することはなぜか難しいようです。確かに、伝統的な心理小説は過去の遺物であるかもしれません。しかし、近現代小説へと至る文学の流れは、時代時代、作家たちが心理小説にさまざまな主義手法を試みたことでできあがっているともいえます。じゃあそんな遺物は忘れていいじゃん、と思ったあなた。その考え方ははっきりいって短絡。だいたい、文学史や伝統的スタイルから離れて現代の小説を見たとき、それらは果たして進化を遂げたといえるでしょうか。知識や研究の蓄積ではなく、人間性を深く描こうとする純粋な動機から生まれ発展してきた心理小説。小説家を目指そうという者なら、そろそろ「心理小説の革新」について考えるべき時期なのではないでしょうか。

「革新」に臨むためには、やはり心理小説の伝統と発展の道筋はおさえておきたいところです。心理小説とは、社会に在る人間を俯瞰的に描写する写実小説に対し、人間心理にスポットを当て客観的に分析して描く小説のこと。17世紀、恋愛心理の複雑な“綾”を織りなしたラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』あたりがはじまりとされています。その後の代表作のひとつとしては、スタンダールの『赤と黒』(1830年/当ブログ記事『スタンダールに見る名作の本領』参照)などが挙げられます。さらにドストエフスキーの諸作品(1860〜1880年)があり、人間性の深みへと先鋭的な方向を示したのが、20世紀文学の最高峰といわれる2作品、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913〜1927年)、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)です。とはいっても、ジョイスやプルーストにこれからの「革新」を探るというのはいかにもハードルが高すぎます。こっち日本人だし――という思いもあります。そこで登場するのは誰あろう、夏目漱石。かの文豪こそは、伝統的心理小説からジョイス、プルーストに至る流れのなかで、心理小説革新のヒントを与えてくれる、日本産のありがたき存在なのです。

名作とは、わかりやすいあらすじのその奥に真価を見せる

私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の我を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。

(夏目漱石『こころ』集英社/1991年)

『こころ』は、親友を裏切り、その親友が恋していた女性と結婚した男の生の顛末を描いています。しかし男は、自らが犯した裏切りの罪悪感からとうとう自ら命を絶ってしまう……というようなあらすじを聞いたとしても、それでふーん悲しいお話ね、と納得して終わってはいけません。ええ〜? 文豪が書く小説としてそれってちょっと陳腐では……と。そう、作家になりたいと野望抱く者は、こうした疑り深さを常にもたなくてはいけません。

もちろん、『こころ』はメロドラマとは無縁の小説です。時代的な精神や思想が複雑に絡み合うような、もっと深い人間心理が描かれているのです。その深みを探ることが、心理小説の革新へのヒントを見出す第一歩です。まず、『こころ』で重要なのは時代背景。「明治の精神」の殉死をテーマとした作品とよくいわれますが、心理小説として読むならば、さらに登場人物の心の綾に目を凝らしたいところです。発表は1914年(大正3年)、明治が終わりを告げてから間もないころで、一方、漱石の生誕年は1867年(慶応3年)、明治幕開けの1年半前でした。その精神を深く明治に根差しながら、大正の世ががらりと変わり果てることを予想した漱石は、知性と精神の不調和を感じたのではなかったしょうか。『こころ』には、その人間の心の不調和、矛盾が描き出されています。

禁欲的な宗教心をもち、感謝と詫びの言葉を書き残しながら復讐のごとき凄惨な自殺を図ったK。危篤の床の父を放って、もうこの世にはない「先生」のもとへ駆けつけていく「私」。高邁な精神で愛するといった妻を遺し死を選んだ「先生」。『こころ』には、精神性でも思想でも哲学でも説明できない、人間の心の矛盾と不安定さが刻印されているのです。

「心」の闇に眼を凝らして小説を書く

要するに私は正直な路を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ち竦みました。

(同上)

人間の矛盾性を体現する登場人物たちの中心的存在である「先生」。彼は「私」に宛てた遺書で、死に至った心の裡を語ります。後半の半分近く、変わりようのない結末の一点へと向かう物語を「先生」の一人称で綴るのだから、それは平地と平地を結ぶごときある意味単調なストーリー運びです。心理小説は客観的な分析がなされるのであって、『こころ』では、「先生」の主観的な心情吐露に客観的な視点が当てられていることになります。この心情独白にも、人間心理の深層を探るひとつの鍵があるように思います。

人間が、すべて正直に心の裡を打ち明けるということがあるでしょうか。あるいは、率直にすべて明かしていると本人が信じるなかに、本当に無意識の偽りや欺瞞はないものでしょうか。それは何も、人一倍感受性が鋭いとか、精神的に脆弱であるとか、限られたケースに当てはめられるのではなく、ごく普通の人間であっても同じこと。人間の心は計り知れないものです。表層近くの一定の心理構造やパターンならばまだしも、より下層の目には見えない「心」の深く昏い場所まで学術的に解明され得るものなのでしょうか。AIが台頭すれば可能でしょうか。それはまだ誰にもわかりません。しかしそんな時代が来るまでのあいだは、本を書きたい人たちよ、あなた方の出番なのです。人の心の底知れない未知の領域に目を凝らしましょう。絶対にまだ誰も手をつけていない空白の地があるはずです。そこへと向かう道程こそが、あなたが切り開く“心理小説革新への道”なのです。

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