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小説の“美味”は心を癒す

2019年12月20日 【小説を書く】

「余白」と「設定」――美味しい物語の決め手

読んでいて心地よい物語というのがあります。五感に優しく作用する――とでもいえばよいでしょうか。そこに介在する要素のひとつが、「食」です。「食」は、「味覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「聴覚」のすべてで感知するもの。俗にいう人間の三大欲求「食欲」「性欲」「睡眠欲」。なかでも「食欲」は、「性欲」とならび創作物によって切々と、むしろリアル以上に掻き立てられ得る欲求といえるでしょう。ならば、読者の“そこ”を刺激しないわけにはいきません。

ということもあってか、ジャンルを問わず「食」をテーマとした作品群をざっと見渡すと、世の中を席巻したグルメ漫画の食へのアプローチは直截的で、心地よいというには少しばかり激しい傾向も見られたりもします。テレビドラマもそうですね。美食の最高峰の追求あり、食のバトルあり、全国津々浦々の名店探訪あり、庶民には聖典を聴くような深遠なる食の蘊蓄あり……。これが意味するところはやはり、「食」を中心に据えた物語の誘引力がいかに強大かということです。

ところがもともとの表現形式による違いでしょうか、これが小説となると様子が一変します。漫画がマニア的熱狂、それを原作とするテレビドラマもまた然り……とすれば、いっぽうの小説は「食」とは「癒し」とばかりに、ゆったりと柔らかな空気に包まれます。それは小説のなかの、「食」による「食」だけの比類ない空気感だといっていいのかもしれません。

「食」を題材とした小説にあって、食材や料理法にも増して重要となるのが「設定」です。「食」が展開される舞台をどのように設定するか、を考えましょう。非日常的な世界を描こうか、ドラマティックな背景を考えようか――。ゆったりと柔らかな空気感を醸成するために欠かせないのは……そう「余白」です。しかしここで日本人たる者、余白をただの空白や真空のような、ポッカリと空ろなものと捉えてはいけません。私たち日本人や小説家の美意識において、「余白」は「無」とイコールではないはずです。その一見、伽藍堂のように思える簡素さの内側に、人の実直な情感やヒューマニスティックな視点がしっかりと内包されている小部屋。そんなイメージを創作活動上の「余白」と定義し、それを活かした小説、そこに登場させるべき「食」とは何か――と逆引きするように考えていきましょう。すると脳内に描かれる「食」の画は、華美や過剰を排したものになってくるはずです。目新しさに不安がある? 確かに。しかし、こと「食」に関しては、“New”であることより“Fresh”であることのほうが重要だと思いませんか? だからこそ、設定と構想がものをいうのです。

「ファンタジー」はスパイスで引き締めるのを忘れない

「自然に囲まれている人が、みな幸せになるとは限らないんじゃないかな。どこに住んでいても、どこにいてもその人次第なんですよ。その人がどうするかが問題なんです。しゃんとした人は、どんなところでもしゃんとしていて、だめな人はどこに行ってもだめなんですよ。きっとそうなんだと思う」

(群ようこ『かもめ食堂』幻冬舎/2006年)

ひこにゃんの登場によってメジャー化したといわれる“ゆるキャラ”。彼らがいまのように脚光を浴びるよりもずっと前、『かもめ食堂』は、“ゆるさ”を物語化して注目された“はじめての一作”であったといえるのかもしれません。物語は、ひとりの女性がフィンランド・ヘルシンキで開業した食堂を舞台に描かれます。なぜフィンランド? なぜヘルシンキ? と訝しみながらも読み進めてみれば、都会の時間の移ろいや、狭い日本で同じ日本人が形づくる生活環境のなかでは、この「余白」の効いた風景は描き得なかったと納得します。『かもめ食堂』は一種のファンタジーです。現実にはほぼ起こり得ない出会いと展開が描かれますが、ただの絵空事ではありません。ファンタジーの内に、上掲の一文に見られるような書き手のシビアな主張が通っていて、物語を涼やかに引き締めているのでした。

物語の質感をアップさせる「重層構造」

「腹が減っては戦はできん」
藍染ののれんが目についた。
関東といえばそばだろう。「新そば」と印刷されたポスターが戸に貼ってある。そういえば東京駅の立ち食いそば屋のトッピングに、コロッケがあってびっくりした。あれは地元では見かけない。

(渡辺淳子『東京近江寮食堂』光文社/2015年)

近江といえば滋賀、滋賀といえば関西、関西といえば「美食」ときて人情噺はつきものですが、コテコテの人情噺では、美味×小説の風景に余白は見出しにくいでしょう。『東京近江寮食堂』のあらましを簡単にいうと、滋賀から上京してきた中年女性が、ひょんな巡り合わせからとある食堂の調理を担当することになり、人間ドラマが織りなされていく――という小説なのですが、これでは物語の本質がまるで伝えられません。故郷から流れてきたおばちゃんが食堂に行きついて新たな人生を歩んでいく――なんていう十把一絡げのソープオペラでは、決してないのです。秘密は、重層構造。『東京近江寮食堂』は、いうなれば人生の機微を布石とした先に舞台をつくり上げているといえます。その「ドラマティックな背景」が要なのです。本編開幕の前、序幕として織り込まれている一篇は、それだけで小説として成立し得るひと組の夫婦の愛情とすれ違いの物語。その物語が“余白”として作中に配されることで、まるで綴れ織りのような精緻な意匠を浮きあがらせていくのです。いささか抽象的な評となってしまいましたが、読んでいただければ納得の滋味深い一作です。

「食」を制する者、創作の未来を制す?

それにしても、「食」をテーマとした物語に心癒されるという現実は、いったい何を意味しているのでしょう。自分の家の台所で、愛情を込めた健やかな「食」が生み出されていれば、何も小説や映画や漫画に癒しを求めなくてもよさそうなものです。しかし、現代ニッポンにおける現実はなかなかそれを許さないのでしょう。忙しすぎるし、便利すぎる。「食事」は「食餌」の要素を強くし、健康であればそれでいいという考え方はすでに市民権を得ています。しかし心はまだ、「食」に何かを期待しているのかもしれません。そうした世相を含めて、作家になりたい者は「時代」を捉える必要があるのでしょう。だからこそ、そこから小説を書いたり詩を書いたりするためのテーマや素材を掬いあげる意味も生まれてくるのです。本を出版したいと目標をもつ者が、時代にも創作にも、したたかに、柔軟に、臨まなくてはならないのはいうまでもないことです。

「食」は、本を書く者にも、読む者にとっても、普遍的で馴染みやすく、かつ魅力的なテーマです。それゆえあらゆる業界でテッパンネタとして扱われるわけですが、安易に取り組めば美味の香りなど少しも立たないファスト・メイドな作品に堕しかねません。作家になりたいあなた、ちょっとした習作でもよいのです。命や生活だけではなく、心にも欠かせないテーマとして「食」を捉え、物語化してみてください。その試みはきっと、創作に新たな啓示を与えてくれるものと信じます。

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