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古代から未来へ『擬人化』世界を巡る

2019年12月13日 【小説を書く】

「擬人化」の歴史

「擬人化」とは、人間以外のものを人間のように見立てる比喩法で、たとえば「風が泣き叫ぶ」「雲が泳いでいる」のように表現します。ただ通常、擬人化といって「あ、あれね」と即座に思い当たるのは、童話に出てくるウサギの執事のような、人間でないものを人間のようにキャラクター化する擬人化のほうかもしれません。そして今回、優れた物語を書きたいとこいねがう作家志望者たちに考えてほしいのも、こちらのほうの擬人化です。

さて、物語に擬人化という手法が用いられるようになったのは、いったいいつからなのでしょう。その答えは、“途方もないむかし”。それこそ古の神話・寓話以来です。火が踊り、天が怒り、地が世界を丸呑みにする神話世界は、擬人化によってでき上がった賜物といっても過言ではありません。そして、この神話の擬人化世界を継承して生まれたものが、民話・伝承。それがさらに近現代の寓話・童話へと引き継がれていきました。有名な寓話・童話の擬人化キャラクターのひとつやふたつは、誰もが容易に思い浮かべることができるでしょう。しかして「擬人化」は、いつしか童話世界を抜け出してさまざまなジャンルに用いられることになります。

日本人にとって馴染み深くも鮮烈な「擬人化」といえば、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩」に尽きるでしょう。漱石先生はやはり偉大です。没後100年もとうに過ぎたいまなお、動物を擬人化し、物語の語り手に据えた作品は次々と生産されつづけています。ただその漱石先生にしたって、『吾輩…』の着想は、それよりさらに80年ほど前にドイツで出版された『牡猫ムルの人生観』(E・T・A・ホフマン)から得たものであると、作中の「吾輩」の独白で明らかにしています。『ホトトギス』連載当初から剽窃ではないかとの議論があったとのことですから、そんな声を受けた漱石のアンサーとして、この独白は織り込まれたと見ていいのかもしれません。堂々としていいじゃありませんか。芸術とは、創作とは、独創とは、過去の足跡を検証し採り入れるところからはじまるもの。漱石のそんなスタンスが垣間見えるエピソードです。

「擬人化」と「マシン」の意外な関係

とはいえ、小説家になりたいと入口に立ったばかりの方に、「擬人化」の手法を取り入れてごらん――とアドバイスを送っても、結果として、動物に語り手の役を振りしゃべらせときゃよかろうという、お定まりの安易な策を選択して終わりかねません。これは、志高くする作家志望者としては片腹痛い事態ではないでしょうか。安易に擬人化手法を採り入れて悦に入ったわけでもなく、むしろ漱石先生につづいたとばかりの心意気だったのに……、この違いはなぜ……。しかしその惑いは正解です。新たな方向性を探り擬人化の未来を見つめてこそ、次代の人気作家ともなり得るのですから。

古代から近現代にかけて、「擬人化」はその姿を変えてきました(この言いまわしは冒頭で少し触れた擬人化比喩法)。神話世界で天地が怒ったり泣いたりした擬人化は、古代から中世に至る物語のなかでは、動物や植物、あるいは命のない無機質なものが人間のようにしゃべり考える存在として描かれました。この手法が現代においても引き継がれているのはご存じのとおりです。しかしながら、この手法一本で未来に臨もうとするのはもはや無謀といえます。宇宙が無限の拡張をつづけ世界が著しくも急速な変化を遂げているのは自明なのです。それでは、未来の「擬人化」をいかに考えるべきか――。ここにひとつ、大きなヒントがあります。いまに至る擬人化手法が、人間でないものに人間の特徴と性質を与えて描くものであったとすれば、現代から未来へ向かう擬人化のひとつの形は、血の通わないマシンに人間に似た外観をもたせることだったのです。

「擬人化」の未来はオリジナル・メソッドにあり

近い将来、人間のような心を再現できるロボットが我々の社会の中で活動するようになり、その姿形にこだわらず、我々が社会の一員として無意識にでも認めたとしよう。そうなったとき、そのロボットを分解してみれば、「ロボットが持つ人間らしい心は何であるか」が分かるはずである。ロボットの中には、機械とコンピュータのプログラムしかない。それらがどのようにつながっていて、どんな規則(ルール)でロボットを動かしているか、ていねいに調べればいいわけである。
しかし、そこにはおそらく、「我々の期待するような歴然とした心はない」
同様に、人間にも歴然とした心はない。

(石黒浩『ロボットとは何か――人の心を映す鏡』講談社/2009年)

異端のロボット研究者・石黒浩。氏の研究は、人間に似せたロボットに、単に人間の知覚を「情報」として教え込む方法論とは一線を画しています。一般的にコンピュータの情報処理力は、解析実行のプログラムによって作動します。対し、“人間の子ども”は、体験を重ねることで知覚を養っていくわけですが、石黒はこれに近い方法でロボットの知覚を発達させる「擬人化」を構想したのです。いっぽう、ロボットをより人間らしくつくるという研究には、ひとつの問題が生じました。それは、人間でないはずのものが、人間そっくりになっていくからこそ覚える違和感です。これを石黒はとあるインタビューで、“人に非常に近づく一歩手前で「不気味の谷」に落ちる”と言い表しました。これには「あ、それわかる」と同調する人が少なくないのではないでしょうか。ところが石黒はこの問題にも解決の糸口を見出します。それは、指令がないからといってロボットを静止させておくのではなく、より人間にそっくりな“無駄な”動きをつけるというものでした。つまり、首を傾げたり肩を揺すったり地団太を踏んだり……みたいなことになるでしょうか。想像すると、確かに不気味さは薄らいでユーモラスな色合いが滲みだします。

石黒は著作で、「ロボットは何か」を考えることは「人間は何か」を考えることだと語っています。換言すれば、「擬人化とは何か」に取り組んでいくことは、「人間とは何か」を突き詰めていくことに通ずる――ということになるのではないでしょうか。率直にいって、ネコやイヌやフクロウを語り手として人間の営みを見つめさせるアイデアは、もう古いのです。古代、天が鉄槌を振るった「擬人化」は確実に未来に向かっています。ともすると人は、“古きを温め”ではなく、“古き”を慣れ親しんだ常套手段のように用いてしまいます。小説を書く、物語を書くという創作のフィールドにあって、それは極めて不用意なことです。もっともっと野心的でなければなりません。「擬人化」を課題に、作家になりたいあなたのオリジナル・メソッドを考案してみる――さすればまた、創作の“真の未来”が見えてくるはずです。

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