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小説における「リアリティ」とは?

2020年03月19日 【小説を書く】

小説における「リアリティ」と「現実」はイコールではない

小説にはリアリティが必要――作家になりたいと日々切磋琢磨する人間で、これに異を唱える人はいないでしょう。ところが、この小説における「リアリティ」に関しては、小説を書く人のあいだでもちょっとした誤解があるようです。小説世界のリアリティは、現実世界の“リアル”とは違う……と聞いて、もしあなたが目を白黒させるなら、よく心してほしいのです。小説のなかに現実の“リアル”をもち込むと、小説世界の均衡はたちどころに崩れかねない、ということを。

小説を書こうと意気軒高とする者が誤解なく胸に留め置くべきは、小説のリアリティとは、実世界の現実を模倣するものではないということです。わかりやすい例を挙げると、たとえばセルバンテスの『ドン・キホーテ』という小説、主人公のドン・キホーテは頭のおかしくなった年老いた郷士と設定されています。騎士道小説にのめり込んだ結果、自身を名のある騎士と信じ込んでいるのです。しかしこのドン・キホーテを描くにあたり、彼が倒錯状態にあるからといって、現実世界の精神が破綻した人のリアリティをもち込むのはまったくの筋違いなのです。無論、作者セルバンテスだってそんなことはしていません。フィクション世界にあっては、その世界に現実性を付与するための「リアリティ」――「虚構的なリアリティ(ややこしい言葉ですが)」を成立させる努力が必要なのです。つまりドン・キホーテは、あくまで『ドン・キホーテ』という物語のなかのキャラクターとして真に迫ってくるような彫琢を施さなくてはいけません。それが「小説のリアリティ」です。“現実にいそうだわー”と思われる人物を作中に放り込むのとはまったく違うのです。むしろ、“現実にはいないでしょ……と”思われるような人物が、読者から見ても違和感なく存在し得る世界を創作することが作家の仕事といっていいかもしれません。

「発話」と「リアリティ」の濃密な関係

つづいて考えなくてはならないのは、「発話」が小説のリアリティを築いていくということです。発話とはすなわち音声言語、一般的にはカギカッコでくくられる登場人物の語りです。現実世界がこの発話(要するにおしゃべり)の応酬――コミュニケーションなくしては成り立ちにくいように、小説世界のリアリティも繰り返される発話によって築かれていきます。ただここでも、小説内の発話と現実世界でのおしゃべりとでは大きな違いがあるのです。

「呑んで、歌うて、ホステスの尻さわって、騒ぐだけ騒いで、あとはタクシーのうしろにふんぞり返っとったら、家まで連れて帰ってくれる。普通のサラリーマンが羨ましいですなあ。ぼくら、ろくに眠りもせんと朝の早ようから働いて……こんな味気ないもん食うて、その上、まだこれから働かんといかん……因果な商売に首つっこんでしもたもんや。時々ほんまに嫌になることありまっせ。黒さんそんな気になることありませんか」
「ある、ある、いつでもそうや。わし、いままで何回転職考えたか分らへん。うちの嫁はんは、うだうだと文句ばっかり言いよるし、子供ともめったに遊んでやられへんし……もうほんまに何でこんなことせないかんのやろといつも思う。せやけど、わしももう若うないから、そうそう大きな変化を求めることできへんし、結局、しんどい、しんどい言いながら、一生この調子やないかいなと考えてる」

(黒川博行『二度のお別れ』東京創元社/2003年)

発話によって築かれる小説のリアリティとは、演技や演出に通じています。しばしば間断なく冗長に繰り広げられる現実世界でのおしゃべりとの大きな差異は、物語の終着点に向かう流れにおいて無駄なく意味をもつものでなければならないということ。現実世界では当然、人物を紹介する文章がその人の脇で宙に浮いているわけはなく、発話のやりとりによって人と人の関係性その他もろもろの事項が明らかにされていきます。しかし小説にあっては、着地点も不明なままいつまでも会話文がつづけられると、物語の均衡が失われ構成が乱れ、リアリティも削がれ、興趣もたちまち薄れてしまいます。ゆえに発話もキャラクター描写と同様に、常に「虚構的なリアリティ」を念頭に緻密に編んでいく必要があるのです。

「小説のリアリティ」は安易には築けない

そしてもうひとつ、リアリティある小説を書くにあたって無視できない要点があります。それは、安易な調査に頼らない、ということです。たとえば、これぞと勝負を賭けて執筆している小説に「ゾウアザラシ」を登場させる必要が生じたとします。その生態を知ったうえでの起用ではなく、彼らが棲息する海域沿岸の風景の一部として登場してもらうような場合で、さしたる予備知識もないのだとすれば、いまの時代ならたいていの人がまずはネットに頼るでしょう。ほかのさまざまな語でもそうですが、「ゾウアザラシ」と検索して検索結果1位に出てくるのはやっぱり、かのウィキペディア。あなたもそれを見てある発見をします。ゾウアザラシがゾウのように体が大きいことからそう呼ばれるのではなく、ゾウのように大きい鼻をもっているから「ゾウアザラシ」と名づけられたことを。おお、ちょっと意外、シメシメと思いこう書きます。「ゾウアザラシはその大きな鼻を海に向けて横たわっている」。……どうでしょう。これがリアリティある描写といえるでしょうか。当人としては目新しい情報を上手に盛り込んだとひとり頷くかもしれませんが、客観的にこの一文を評価するとすれば、いかにも安易な調査の産物然とした文章――となるでしょう。このような掘り下げの浅い一文なり一行なりが、あなたの小説の質をたちどころに貶めてしまう危険は常にあるのです。

20世紀のロシアの大作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』は、スターリン批判によって逮捕・服役、ラーゲリ(強制収容所)で数年を過ごしたソルジェニーツィンの実体験をもとに、スターリン統制下の収容所内の一日を描いています。その筆の淡々としたリアリティ、それでいて温もりをも感じさせるリアリティは世界で絶賛され、ソルジェニーツィンはこの作品にあと押しされ、1970年にノーベル文学賞を受賞しました。というわけで最後に、作家になると志抱く者が「小説のリアリティ」を学ぶテキストとして、まさに不足ない一作から一文を引いて本稿を閉じたいと思います。

ここでは、仕事で身を粉にしても、這いつくばっても、大地から食い物は出てこない。お偉方がきる伝票以上にはもらえない。それさえコックだとか、手下だとか、らくな仕事をしている奴だとかのお陰でまともには口にはいらない。ここでもちょろまかすし、ラーゲリ内でもちょろまかす。その前に倉庫でもちょろまかす。ちょろまかしている奴らはどいつもこいつも自分じゃつるはしもって働かない。

(アレクサンドル・ソルジェニーツィン著・染谷茂訳『イワン・デニーソヴィチの一日』岩波書店/1971年)

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