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作家になるなら、本気で「季節」を書いておきたい

2020年10月01日 【作家になる】

「季節」は演出の一材料ではない

四季の国といわれる日本では、風物が美しく折々の季節を彩り、まこと美しく、その移り変わりは明快です。このような国に生まれ育ったからには、作家になりたいと名乗りあげる者ならばなおのこと、風趣豊かで繊細な季節描写を心がけたいところ……ですが、残念なことに、季節描写に重きを置く作家の卵はあまりいないようです。いや、重きを置くにしても、くどくどと書き過ぎて、甚だバランスを崩しストーリーが撓んでしまっていたりするのですから、それはそれで困りものなのです。

春なら桜の花、夏ならギラつく太陽、秋の紅葉に冬は雪と、ありきたりな発想をありきたりに表現する無防備な姿勢が一番の問題です。あなたは何といっても、“四季の国日本”で作家になろうと胸を熱くしているのですから、移りゆく季節のなかに暮らす日常雑感を綴るエッセイはいうにおよばず、小説だって、物語の背景に季節がある限りその描写を疎かにして許されるはずがありません。凡庸な、あるいは粗忽な、あるいは的外れな季節描写は、たちどころに作品の質を貶めかねないと肝に銘じるべきなのです。そもそも日本の四季は、世界に類例を見ない独特の情緒を具えており、手近な日本文学史を漁ってみれば、いくつもの名描写にその真髄を見ることだってできるのです。というわけで今回は、そんな季節描写の奥義を探るべく“古き”を温めてみることにしましょう。

吉田兼好の「徒然」を字義どおり受け取ってはいけない

鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわただしく散りすぎぬ。
青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。

(吉田兼好『新訂 徒然草』岩波書店/1985年)

清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とともに、日本の三大随筆のひとつに数えられる『徒然草』。「徒然」――暇にあかしていろいろ書いてみちゃるよ――という暢気そうな身がまえに、この作品をゴロ寝の輝ける産物のように思うのは大きな間違いです。作者の吉田兼好は、文芸評論界の巨星小林秀雄をして、“超える者のいない日本第一級の批評家”といわしめた俊英。暮らしや季節の風景にさまざまな人間の本質や思想を重ねて描くという、粋な至芸を見せた達人なのです。上掲の一節を現代語に訳せば――鳥の声もすっかり春めいて、のどかな陽射しに垣根の草が芽吹くころ。次第に春も深まり霞も立ちはじめ、桜もようやく花開こうというとき、不意に雨風が吹いてきて、見る間に散り過ぎてしまう。青葉の季節になるまでは、こんなふうにあれこれと悩ましい日がつづくのかな――といったところでしょうか。この一節には、自然鑑賞を無理なく日常に取り込んでいる生活スタイルが窺えるうえ、思い悩んでも仕方のないはずの自然の所業に、それでも思い悩んでしまう人の心模様がみごとに浮かびあがっています。これこそがアップル創業者スティーブ・ジョブズさえ魅了した“侘び寂び”の精神の境地。「徒然」に日々を過ごす態度でありながら、兼好の描く過ぎゆく春の風景には、自然に心を合わせる人間の“生(き)”の佇まいが重ねられているのです。

目に見えない季節の情景を描こう

自然のなかには、呼吸するような、静寂ともいえるような、ひそやかな音が満ちていることをご存じでしょうか。とりわけ、繊細な日本の自然のなかにはそれがあります。時代は移って近代へ。随筆家としても高く評価される『春の海』で知られる箏曲家・宮城道雄。視覚障害者であがゆえに――ということなのでしょうか、音楽に比類ない才能を発揮した宮城の耳は、“音”に対しては常人離れした鋭敏さをもっていました。景色というものは目で見て愛でるものであるといえば、一般的にはそうなのかもしれません。が、感受する要素までもが目で見る世界に終止するばかりでは、香りも音も手触りもない、PCのディスプレイ越しのありきたりな風景画と変わるところはありません。目の見えないはずの宮城は、並はずれた聴覚で捉えた音から思いもかけない発見をし、豊かな生命感に満ちた季節の情景をその筆致で再現してみせたのです。

この葉山では五月の頃みんみんに似た声の蝉がなく。その声は何となく弱く聞こえて現世のものではないように感じられる。今年はいつまでも肌寒くて夏の来るのが遅かったように思われた。七月の十三日に初めて夏らしい蝉の声を聞いた。それはヂーと長くひっ張って鳴くのであった。その日の夕方に裏の山からひぐらしの声が聞こえた。その月の二十五日には昼過ぎにもひぐらしが鳴いた。ひぐらしが朝早くから夕方迄ときをつくって幾度もなくようになると私は秋が近いのだと感じる。ひぐらしは一匹がなき始めると他のひぐらしもうつったように鳴き出す。その声が山全体に段々ひろがってゆくように聞こえる。

(宮城道雄『耳の日記』/『心の調べ』所収/河出書房新社 /2006年)

視力を失った宮城は、耳で聴いたり手で触ったりする感覚から風景を想像すると語っています。文字で描く風景に現実の音や肌感覚をもたせることは、言葉でいうほど容易な作業ではありません。目で見る情報や先入観に囚われていては、とおり一遍の季節しか描けませんし、随筆がゴロ寝では書けないように、季節もぼんやりと接していては深い感触を得ることはできないのです。季節とは、エッセイの味わいを深めるだけのものでしょうか、小説世界を演出する書割や設定に過ぎないのでしょうか。そうではありません。季節とは、主題と溶け合う重大な要素にもなり得るものなのです。宮城道雄の自然描写の原点に思いいたせば、彼は耳を澄ませ、体を預け、いつまでも季節との交歓を楽しんでいたと察せられます。エッセイストや作家を目指す者にとって、自然や季節の移ろいとの触れ合いは、いわば必要不可欠の実地訓練。そのことをいつも心に留め、真摯かつ安らかに季節を感じるひとときを日常にもってほしいものです。音や匂いや肌触りを伝えるような季節描写はきっと、本を書きたいあなたのエッセイや小説に、精彩と本質的な妙味をもたらしてくれるはずです。

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