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「セカイ」の果ての世界――SF(サイエンス・フィクション)をどう書くか

2021年05月17日 【小説を書く】

“SFの本質”に思いを致す

ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズを始祖にもつSF(サイエンス・フィクション)は、いまでこそ書店の一隅を占める確立された1ジャンルではありますが、やはり過去にはさまざまな変遷を辿ってきました(当ブログ記事『論理と空想のSF世界に遊ぶ』参照)。科学への希望と憧れを込めた未来社会があり、宇宙を股にかけたヒロイック・ファンタジーがあり、人類の終焉への警鐘を説くディストピアがあり、ジュブナイルへと至り、今日のセカイ系の席巻へとつつづきます。そこに描かれるテーマや作品世界は、当然ながら時代時代の空気やカルチャーと深く結びついています。それは、“いまではないどこか”を描きながらも、発表当時に関していえば、書き手も読み手も“この時代のここ”に生きる人々だからです。そうしてSFは時代とともに進歩し、たくさんの名作が生まれてきたわけですが、正直なところSFの世界観、科学的空想はいまや出尽くした感も否めません。コアなファンほどこの思いは強いかもしれません。――とすれば、書き手ならなおさらです。すでにSF世界に現実が追いついたとさえいわれるいま、SF作家になりたいと日夜アイデアを絞る者としては、このジャンルの最後の一滴となるやもしれぬ雫を自分の筆で垂らすために、いったい何を描けばいいのでしょう?

※セカイ系:言葉の定義には諸説ありますが、評論家の東浩紀氏ら発刊の評論誌で提示された言葉を借りると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」とのこと。本稿でもその意味合いで使用しています。

SF世界の原点のひとつに「戦争」があります。マンガの神様と呼ばれた手塚治虫の創作の原点も「戦争」でした。少年時代、昼夜飢えに耐え、軍事教官に殴られ、大空襲では死をも覚悟した手塚は、終戦を迎えると万歳と躍り上がったと回顧しています。なぜ、人は戦争をするのか、民族間で争うのか、手塚は数多の漫画を通して問いかけました。『鉄腕アトム』は、めっぽう強い10万馬力のロボット少年であるだけでなく、争いの絶えない人間社会にあって、平和のために命を懸ける心清きロボットでした。氏の異名「マンガの神様」のとおり、手塚漫画はのちのSF作家たちに多大な影響を与えました。戦争に破壊された未来社会はいかなるものか、人類が滅亡したら――? 手塚以後のSF作品の多くのストーリーが、人間世界への憂慮から鋭いメッセージ性をもって紡がれていったことは事実です。

深くて遠い「滅亡後の世界」

日本を代表するSF作家小松左京も、手塚治虫に大きな影響を受けたひとりです。手塚と同じく戦時に少年時代を送った小松は、生き残った者の責任を痛感したことがSF執筆のきっかけとなったと語っています。小松の代表作のひとつに、社会現象まで巻き起こした『日本沈没』が挙げられます。映画にドラマにと幾度も実写化され、日本におけるパニック映画の先駆けとなった作品です。ですが、これを単なるパニック小説、娯楽小説として読んでしまっては、その真価に触れることはできないでしょう。「一億玉砕!」と国を挙げて叫ばれた戦中、小松少年の胸に湧いた「日本人は本当に滅んでしまっていいと思っているのか」という疑問は消えることはありませんでした。この原初的な疑問を色褪せさせぬまま大人になった小松が描いたのが、日本という国が滅んだあと生き残った日本人はどうするのか、という主題をもった『日本沈没』でした。

小松には、日本が沈没したあとにつづく第二部刊行の構想がありました。国を失って世界中に散り散りとなった日本人がどう生きていくのか、滅亡後の日本社会(もはや「社会」の体をなしていないと思われますが)を描くこの第二部こそは、本作『日本沈没』の要諦であったはずです。しかし、この第二部が発表されるのは、実に33年もの月日を経たあとのことになるのです。空前のヒット作の続編とあれば、当時の版元のあと押しも生半可なものではなかったはずです。小松も書いては棄てを繰り返していたようです。でもダメだった。時代は日本の高度経済成長期末期、つまり輝かしくもどこか空々しい時代に色濃い影が落ち、以降、現実の社会情勢や地球環境がマイナス方向へと著しく変化しはじめる頃合いです。そのなかで小松は、滅亡後の世界のイメージに迷いが生じたといいます。縦横無尽の想像力と、それを鋼鉄の芯のように補強する博覧強記と妥協のない研究心が小松の本領のはずですが、その彼をして、描きあぐねたというのです。いえ、それはありあまるほどの想像力と知識ゆえであったのかもしれません。小松左京も書き得なかった滅亡後の世界――「セカイ」の果ての世界とはいかなるものなのでしょうか?

「希望」に取って代わるテーマとは

「セカイ系」もそうですが、滅亡後の世界は数多くの小説や映画に描かれています。徹底した管理社会、暴力に満ちたカオス、そのなかで生き残った人間たちは、自由のために、あるいは生きることそのもののために、藻掻いて足掻いてしゃにむに戦います。そこにはもちろん「希望」というテーマが見出せますが、この誰もが大好きなテーマを安易に扱ってはならないところが、「小説」におけるSFの最大のキモといっていいのかもしれません。具体的な視覚情報をいっさい提供できない文字モノ作品では、希望を手にして万々歳――というハリウッドらしい完全無欠のエンタメ然としたフィナーレでは、読者の心を読後まで惹きつけることはできないからです。

山椒魚ほど、傷に対して抵抗力のある動物は、ほかにはない。この点、山椒魚は、ほとんど不死身の第一級の戦争用動物になる可能性を持っているが、残念なことに、その性格が平和的で、生まれつき攻撃に対して無防備な点が、その障害になっている。

(カレル・チャペック著/栗栖継訳『山椒魚戦争』早川書房/1998年)

カレル・チャペックの『山椒魚戦争』は、山椒魚と人間の奇妙な戦争を描いています。白熱した決死の攻防ではなく、言葉をしゃべり進化した山椒魚たちにより人間社会はただじわじわと侵食されていき、やがて静かな人類滅亡の気配が訪れます。滅亡に追いやられていく人間たちには、山椒魚に対する優越意識と驕りがありました。滅亡は、その意識を捨て去ることも、共存の道を探すこともしなかったがための末路。この展開は、人類の未来の予言でしょうか。けれど、言語と知能をもつ山椒魚が存在する世界は、人類滅亡後のそれをも思わせる説得力があります。

「セカイの果て」にはSF作家の未来がある?

『山椒魚戦争』に影響を受けた巨匠・小松左京も、滅亡後の世界で人類を凌駕していく“とある存在”を創出しました。『日本アパッチ族』は1960年代を舞台としていますが、鉄を食し鋼鉄化した肉体をもつ一族が権力へ挑んでいく戦いは、やはりどこか『山椒魚戦争』にも似て終末後の世界を彷彿とさせます。山椒魚もアパッチも、権力や支配力を求めて戦いを起こし人類の淘汰へと向かったわけではありません。ヒトとは異質の彼ら“新種”に、驕りと欲望を捨てられない人間たちこそが、むしろみずから敗れていったといえます。「セカイ」の果ての世界においても、そんな人間の愚かな姿は変わることはないのでしょうか。

あなたが、小説家になりたい、SFを書いてみたいと構想を練るならば、「セカイ」の果ての世界に新たな人間の姿を構想することは、とても興味深い試み、意義ある挑戦といえるでしょう。再生と存続、滅亡後の世界に新たに描かれていく私たち自身の容姿、生き様、思考、倫理観は、人間世界において普遍的に引き継がれる究極のテーマを浮かび上がらせるかもしれません。本稿執筆時点の2021年5月は、新型コロナウイルス感染症COVID‑19が世界中に蔓延しはじめてから1年ほどが経ったまさに、コロナ・ディザスターの只中にあります。イギリス株、インド株と、いくつもの変異体が誕生しており、人類がそれを克服できるのかもわかりませんし、間近に迫った国際的一大イベント東京五輪の成り行きさえ、この危機の前では些事のように扱われることも。東京五輪開催の「2020」にとんでもない災厄に襲われる――私たちはまさしくいま、1980年代のSF漫画『AKIRA』が描いた世界の住民となっているのです。作者大友克洋が見せた、3、40年越しとなるフィクションと実世界のこの驚くべき符合。こうした点に、SFというジャンルの奥深さ、末恐ろしさ、そしてそれに挑む醍醐味が現れているように思えはしませんか?

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