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作家になるための上級課題──「夜明け後」の世界に何を見るか

2021年12月06日 【作家になる】

「明けない夜はない」を立ち止まって考えてみる

求めても得がたいもの、といえば何でしょう。富、名声、成功、自由、愛する人、心ゆくまで食べること、あるいは、明日を生きる理由……それこそ欲望の赴くままにいくらでも思い浮かびそうですが、その全部をひっくるめて「希望」と呼んでもいいかもしれません。そして多くの方が自身のことを振り返れば深く頷くところと思いますが、希望を求めてやまない存在が人間であり、また、その希望が容易に叶えられないのが人生の定めでもあります。ゆえに、希望が立ち現れてくるところには「絶望」や「失意」、「不満」や「飢餓感」といった好ましくない雲行きが見られます。ですから作中で希望を描こうとするなら、それとの対比をなす絶望感や失意や飢餓感でいっぱいの逆境を描かなければいけないのです。それがいわゆるホームドラマ仕立てであれば、あらゆる苦難を乗り越え大団円でめでたく幕閉じるわけ──ですが、ああ、現実とは斟酌なきものなり。フィクションとは異なり、希望が満たされようが捻り潰されようが、我が人生も社会の営みも否応なく黙々とつづいていきます。あれほど冀って(こいねがって)いた希望もまたひとつの通過点でしかないと知るしんどさよ……。しかしですね、将来の作家たる者が見据えなければならないのは「そこ」なのです。

「明けない夜はない」「止まない雨はない」といった言葉がありますね。どんなに暗くても夜明けは必ず来る、雨は必ず止むという自然の摂理に喩えられ、真っ暗闇の絶望的境遇にもやがて晴れ間が訪れるもの──と希望のフレーズとして扱われがちです。しかし、希望を表す代名詞のようなこうしたフレーズに関しても、その背景について抜かりなく考えておくべきでしょう。「明けない夜はない」は、シェイクスピア『マクベス』の有名な台詞として同訳があります。原文は「the night is long that never finds the day」ですから、ストレートに訳せば「明けない夜は長い」であり、「明けない夜はない」はひところ誤訳だ珍訳だと物議を醸したりもしました。が、マクベスを倒せば夜明けがくるぞという決起の雄叫びであることに変わりはないわけですから、別にどちらの訳であろうと騒ぐほどのことではないかもしれません。もとより小説を書きたい、作家になりたいとあなたが希望を抱くなら、それが困難な道であることだって承知しているはず。それに加えてもうひとつ知っておいてほしいのが、「明けない夜はない」と信ずれば遠からず「希望」がやってくるというこの妄信的な希望を、安易に描いてはいけないということです。むしろ「この夜は永遠に明けはしまい」と思わせる闇を描いてこそはじめて、あなた自身もまた希望の地に到達し得るのでしょう。『マクベス』は大悲劇。「明けない夜はない」と希望を表明する夜明け前には、とんでもないほどの嵐と暗闇が延々横たわっている作品だということを忘れてはいけません。

名作の描く「明けない長い夜」

まさしくそのタイトルも『夜明け前』と題された島崎藤村の長編小説は、藤村の晩年に書かれました。明治維新前後を時代背景とした歴史小説ですが、中央で活躍する志士の姿を描く回天のドラマではなく、その片隅よりもっと遠くで新たな時代に希望を懸けた末に絶望し命果てた市井の人物を描いています。主人公・青山半蔵のモデルとなったのは藤村の父で、藤村は入念な調査を重ねその生涯を克明に再現しています。木曽路の馬籠宿(まごめじゅく)に庄屋の後継として生まれ、国学を学んだ半蔵は、新時代到来の予感に王政復古の理想世界を夢見ました。下層の人々の暮らしに胸を痛めていた彼は、日本古来の精神があまねく行き渡った古代のあり方にこそ社会の健全な姿があると信じていたからです。しかし維新によって築かれたのは、欧米の模倣、追従社会に過ぎませんでした。愕然としながらも改革に己を奮い立たせる半蔵と、新しい社会を無感動に受け入れる村人のあいだには距離が広がっていきます。孤軍奮闘も虚しく戸長の職を解かれた半蔵は上京に望みを託すも……、やはりそこに待っていたのは失意と挫折のみでした。思いあまった半蔵は天皇直訴の暴挙に出ます。

暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化け物だ、と彼は考えた。
この世の戦いに疲れた半蔵にも、まだひるまないだけの老いた骨はある。彼はわき上がる深い悲しみをしのごうとして、たち上がった。ひらめき発する金色な眼花の光彩は、あだかも空際(くうさい)を縫って通る火花のように、また彼の前に入り乱れた。彼は何ものかを待ち受けるような態度をとって震えた。
「さあ、攻めるなら攻めて来い。」

(島崎藤村『夜明け前』/岩波書店/2003年)

村に帰り蟄居の身となった半蔵は、気骨だけは失うまいと必死に踏みとどまります。けれど、故郷はとうに安住の地ではなく、報われぬ足掻きをつづけ騒ぎを起こすばかり。村人はそんな彼をもてあまし、とうとう座敷牢に閉じ込めてしまいます。こうして、孤独と絶望に苛まれついに発狂した半蔵は無惨な最期を遂げるのでした。

人々は進歩をはらんだ昨日の保守に疲れ、保守をはらんだ昨日の進歩にも疲れた。新しい日本を求める心はようやく多くの若者の胸にきざして来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むこともできないような不幸な薄暗さがあたりを支配していた

(同上)

半蔵を葬る鍬の音のみが響くなか、物語は幕を閉じます。

「夜明け後」への深遠な問いに勝機あり

「夜明け」、「黎明」とは、いかにも希望に満ちあふれた言葉です。なぜなら、これら言葉は夜(=闇)が明けることを大前提としているから。遠くの水平線がうっすら明るむや再び陽が沈んでしまう極夜の世界など多くの人は知らないのです。そして夜が明けさえすれば、理想がカタチになる、好ましい事態が訪れると人は信じます。けれどそれが壮大な幻想であったと、藤村の『夜明け前』は無常な問いかけをなします。主人公の行動の基調となっているのは、王政復古を是とする思想でしたが、「夜明け前」には叶わぬ人の思いが常としてあり、「夜明け後」には厳然たる現実との出会いが待ちかまえています。世界は健気な一個人の存在とは無関係に、未知の生き物のように予想のつかない変貌を示していくものなのです。

「明けない夜はない」といった言葉によって語られる「希望」。ですが当然、夜明けの先にはまた別の夜の訪れがあります。希望とは容易に叶えられるものではなく、そればかりか永続もしないようです。しかしそれを知った上でもなお、人は希望なくして真に生きていくことはできないのではないでしょうか。この問答、ここまで来るともう、フゥ……と思わず溜息が洩れそうですが、こうした深遠なテーマに挑んでいくのもまた作家を志す者の務め。あなたは「夜明け後」の世界に何を見ますか? その答えを探すことこそは、ひょっとすると、将来の名作誕生の第一歩となるのかもしれません。

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