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自分の「文体」を探す旅に出よう

2023年10月24日 【小説を書く】

文体に立ち現れる人柄

プロの作家を目指して作品を書くとなれば、当然、文章力を研ぎ澄まさねばなりません。やはり拙い文章では、読者を作品世界に惹き込むことはできません。そうした巧拙の話とは少し別軸で、“文章は人を表す”との言説もしばしば聞かれます。ここでいう文章とは、作品という「テクスト」に特徴的に現れてくる模様──「文体」になります。文体はいうなれば作家の個性で、わかりやすくいうと“上手い下手を超えた味わい”といえるでしょうか。もとより「テクスト」は素材の質感を意味する「テクスチュア」を語源としますが、作家自身の個性を示す一文一文が縦横に織り込まれることで、まさしく唯一無二の織物のような文学作品ができあがるわけです。

そんなわけで物書きが文体を意識する、意識すべきだというのは論なきこととはいえ、一朝一夕にこれぞという形に整えられるものでないのもまた残酷な現実です。「あなたはどんな性格ですか?」と問われて少々戸惑うのと同様、自分自身の文体がどんなものであるか、また意識してみたところで、読み手に意図どおり伝わっているかどうかを自己評価するのは難しいものです。そこが、文体を確立する上でもっとも厄介なポイントでしょう。それに小さからぬ落とし穴がぼこぼこ口を開けています。さあ、これからすばらしい小説を書いて世に出よう! と意気込む作家志望者たちが手はじめにまず陥るのが、やたらと飾り立てた文体に走ること。ついつい漢語的になるのもそうした傾向のひとつです。ついで第2位(体感です)は、尊敬する作家や愛読する小説の文体の色に染まるケース。一例としては、歴史小説なら司馬遼太郎の、作家当人が作中に顔を出す文体が挙げられます。手を染めぬ方からすると「まさかァ!?」と驚かれるかもしれませんが、これをやるアマチュア作家はそこそこの数いらっしゃいます。重々しく否定しますが、飾るのもパクるのもしてはなりません。飾り立てれば素顔が見えないし、何人たりとも司馬先生にはなり得ないのです。私たちそれぞれが自身の文体を探すというのは、もはや「自分探し」と同じ次元の難易度。体得に向けてはライトな姿勢を捨て去るしかありません。文体に関するSF作家の星新一の名言として、ネット上には次の一節を引用した記事が散見されます。残念ながら出典は不明ですが、的を射た言葉に違いありません。

文体とは、あくまで人柄だ。
ユーモアのない人にユーモラスな文など書けるはずもなく、大まかな性格の人に神経質な文は書けない。
文章技術より、自己発見のほうが先である。
それだけでいい。
あとは、辞書をそばに誤字を減らすよう努力し、文字を丁寧に書くように気を付ければ、文章は自然と、あなたの人柄のいい面が現れてくる。

(出典不明 表記がまちまちな点は本稿編集時に適宜補正)

自分の個性を知らずして、真に自分らしい文体は生まれない──。作家になりたい者は、飾り立てたり誰かを気取ったりしてはならず、「素」の自分を知らなければならないのです。というとちょっと厳しいニュアンスも滲みますが、上の言葉をまっすぐに受け止めれば、「ありのままでいいんだよ」と、自分の文章を自分なりに磨いていけば、おのずと自分らしさの出た文体に辿り着くことができるよと、究極に肯定してくれているようにも感じられます。

文豪・森鷗外の「簡浄要訣」な文体

己の文体を磨きひとつの到達点を見出した作家がいます──そのひとり森鷗外。いわずと知れたまごうことなき日本の大文豪。「文豪」にあえて「大」をつけたのは、やはりそれほどすごい作家だからです(余談ですが、鷗外は星新一の曾祖母の兄)。さて、鷗外の個性は、症例や病状という“事実”を凝視するための医師の冷徹な眼差しを、まったくそのまま小説創作にも向けた点に見ることができます。もともと鷗外は、その個性のまま、修飾的な文章を書く作家ではありませんでしたが、その意識は次第に研ぎ澄まされ、晩年には、文章は「簡浄要訣」であるべしとの自戒に至ります。まずは初期の代表作『舞姫』から見てみましょう。

今この処を過ぎんとするとき、鎖(とざ)したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女(をとめ)あるを見たり。年は十六七なるべし。被(かむ)りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁(うれひ)を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛(まつげ)に掩(おほ)はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

(森鷗外『舞姫』/「現代日本文學大系 7」収録/筑摩書房/1969年 ルビは青空文庫による)

『舞姫』は明治23年(1890年)発表、ベルリンへ留学した主人公とドイツ人女性エリスの悲恋を回顧形式で綴る物語です。上掲の一文は主人公とエリスの出会いの場面。ひとりすすり泣く、黄金色の髪、青い清らかな瞳の美少女にひと目見て胸打たれた主人公の切なげな姿が情感を込めて描かれています。無駄な修飾のないシンプルかつ流麗な文章、鷗外初期の文体です。

一方、晩年随一の傑作といわれる『阿部一族』はどうでしょう。先にあらましを書いておくと、同作は死に瀕した主君に疎まれ、殉死を許されなかった阿部一族の無惨な末路を描いた歴史小説です。武家社会では主君に殉じることは家臣の名誉であったわけですが、阿部の家長弥一右衛門はそれを下賜されず、挙げ句、瓢箪(ひょうたん)を切るという名目で腹に瓢箪を載せて切腹しました。そんな父の無念を訴えた阿部の長男は無礼の咎で縛り首になり、残された阿部一族は死を覚悟して立て籠もり、ことごとく討死、あるいは自害して一族の灯は尽き果てます。

阿部一族は最初に弥五兵衛が切腹して、市太夫、五太夫、七之丞はとうとう皆深手に息が切れた。家来も多くは討死した。
高見権右衛門は裏表の人数を集めて、阿部が屋敷の裏手にあった物置小屋を崩(くず)させて、それに火をかけた。風のない日の薄曇りの空に、煙がまっすぐにのぼって、遠方から見えた。それから火を踏み消して、あとを水でしめして引き上げた。台所にいた千場作兵衛、そのほか重手を負ったものは家来や傍輩が肩にかけて続いた。時刻はちょうど未(ひつじ)の刻であった。

(『阿部一族』/「日本の文学 3 森鷗外(二)」収録/中央公論社/1972年 ルビは青空文庫による)

上掲のシーンは、一族が立て籠もり死に絶えた直後、屋敷が灰燼(かいじん)に帰す様子を描いています。どうでしょう、一片の情感すら交えない淡々としたこの場景描写。これが鷗外が晩年に到達した「簡浄要訣」の文体です。鷗外はフィクショナルな解釈を排して、史実どおりに阿部一族が消滅する姿を小説に仕立てました。“史実”を織り上げたテクスト。だのにそれは記録ではなく、あくまで小説としての読み味を湛えているのです。1913年(大正2年)、死の9年前に発表された『阿部一族』。鷗外は、何の主観も問いかけもなく、史実の一幕を表現するなかから、おのずと浮き上がってくる情趣を求めたのです。『舞姫』から23年、大文豪の名にふさわしい「凄み」というべきでしょう。

「真の自分」を探す過程で掴み取るもの

しかし鷗外は、没後100年以上が経った時代に「大文豪」などと呼ばれることを決して喜ばなかったでしょう。有名な逸話があります。「森鷗外」ではなく「森林太郎」としての死を望むと遺言した鷗外の墓には、実際にその本名のみが刻まれています。晩年に臨んで「簡浄要訣」の志は鷗外の精神、人格の芯にまでおよんだといえるのではないでしょうか。

それにしても、文章術、文体、そして創作物というのものには、人間性にまで関わるような底知れぬ深みがあります。掴み取ろうとすると逃げていく「文体」、けれど求めないことには辿り着けない「文体」。それは、本を書きたいと思った者が「真の自分」を発見するところからはじまるのかもしれません。最後に、鷗外先生の遺した励ましの一文を引いて本稿を閉じることといたしましょう。作家になりたい者ばかりでなく、「自分」が見つけられず、生きることに思い悩むすべての者の胸に火を灯す言葉です。

日の光を藉りて(かりて)照る大いなる月たらんよりは、
自ら光を放つ小さき燈火たれ。

(「森鷗外の『智恵袋』」より/訳・小堀桂一郎/講談社/1980年 ルビは引用者による)

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