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「本を書きたい」人が読むブログ
「本を書きたい!」「本を出版するには?」と思っても、何からはじめたらいいか、わからないことがワカラナイ――という方も多いでしょう。当コーナーでは、小説を書くうえでのポイントや、読み応えのあるエッセイの文章構成、評価される詩の共通点などを、具体的な事例とともに解説。
本になる前の原稿を数多く読んできた文芸社ならではの視点で、あなたの一文が作品に生まれ変わるまでのお手伝いをいたします。

ロングセラーになる秘訣――『赤毛のアン』を紐解く

2018年02月09日 【小説を書く】

これは小説? それとも児童文学? クロスオーバー作品がたたえる魅力

『赤毛のアン』という小説は皆さまご存じでしょう。読んだことはなくても、題名やあらすじぐらいはたいていの人が知っているレジェンド的作品です。100年以上も前にカナダの小説家ルーシー・モード・モンゴメリが発表し、いまに至るまで世界中の少女に愛読され、アニメや映画にもなりました。モンゴメリは童話作家ではありませんが、この作品は今では児童文学としてカテゴライズされるのが一般的なようです。カテゴリというのはある種あとづけの線引きともいえるので、ここではその定義について触れることはしません。ただ、『赤毛のアン』がいずれのカテゴリーにおいても「成立する」事実は、この作品がたたえる奥深い魅力の証左といえるでしょう。『赤毛のアン』は少女たちの人気を集めるばかりか、“おとなになった少女”をさえ魅了しつづける作品でもあるわけですから。
さて、そんな『赤毛のアン』です。思いっきり人口に膾炙しているとはいえ、その幅広く息の長い人気を無視してもよいものでしょうか(いえ、いけません)。というわけで今回は、ロングセラー小説を書きたい(さらにはそれで左団扇……)というあなたのためにも、この名作『赤毛のアン』に、長く長〜く読者に愛される物語創作の秘密を探ってみたいと思います。

物語の舞台背景は「現実」からちょっとズラす

九月のある日、プリンスエドワード島の丘に、すがすがしい海風が浜の砂丘をこえて吹いていた。(略)黄色いアキノキリン草と青灰色のアスターの花が帯をなして咲きひろがるところを通っていた。
(モンゴメリ/村岡花子訳『赤毛のアン』新潮社/2008年)

孤児院から引き取られた少女アン・シャーリーの成長を描く物語の舞台は、カナダに実在するプリンス・エドワード島にあると設定された架空の村、アヴォンリーです。16世紀にこの島を発見したフランス人探検家ジャック・カルティエが「今までに見たなかで一番美しい島かもしれない」と感嘆したとの逸話が残されるほど、今なおおとぎ話の世界が息づいているようなプリンス・エドワード島。そこには実際に、アンの家のモデルとなった緑の切妻屋根の家が保存されています。架空の舞台アヴォンリー村のモデルとされる村ももちろん存在します。が、ここにはちょっとした不思議があります。その村「キャベンディッシュ」は海辺の村であるにもかかわらず、作中に描かれるアヴォンリー村には、海風がそよぐ程度で、それ以外に海を想起させる描写がほとんどありません。物語に付与したい印象――牧歌的な雰囲気やみずみずしい緑のイメージに、「海」がそぐわないとモンゴメリは考えたのでしょうか。あるいは計算のなせる技であったのか――いっこうに姿を現さない海の気配が、かえってアヴォンリー村のおとぎ話的魅力を際立たせたのでした。

主人公の“見てくれ”にひそむリアリティ

そばかすや緑色の目、やせっぽちのことなんかね……皮膚はばら色だし、目は美しい星のようなすみれ色だとも想像できるのよ。でもこの赤い髪ばっかりは想像でも、どうにもならないの。一生懸命やってみるのだけれど……
(同上)

『赤毛のアン』と同列に語られる作品は、『小公女』や『若草物語』、『ジェーン・エア』など。現代の目線でいえば、いずれも世間にありがちな出来事や人物を描いているようにも思えるのですが、19世紀から20世紀初頭の時代にあって、自分の意志で生きていこうとする女性、しかも少女にスポットを当てる試みは実に革新的でした。そのなかで『赤毛のアン』には、他の作品にはない特徴があります。主人公アン・シャーリーの「赤毛」や「そばかす」「やせっぽち」といった、容姿の描写がことさらに強調されている点です。実はこの『赤毛のアン』、原題は『Anne of Green Gables(緑の切妻屋根のアン)』とお世辞にもキャッチーなタイトルとはいえず、日本での刊行以前はやはり格別目覚ましい成功は収めていませんでした。ところがです。1952年に村岡花子の初訳で『赤毛のアン』と邦題をつけて出版されるや否や、書名そのままのヒロインが日本はおろか世界中の少女たちを惹きつけ、やがて本国カナダでも公認のタイトルとなったのです。

「赤毛」「そばかす」「やせっぽち」のフレーズが少女たちの共感を呼んだのでしょうか。確かにそれまでの文学作品に登場する少女たちは、「金色の巻き毛」「桜色のほお」とは描写されても、「赤毛」「そばかす」「やせっぽち」と悪しざまに呼ばれることはありませんでした。アンがギルバートに赤毛をからかわれる場面を見るように、それらは“コンプレックス”を指すフレーズでしたが、外見的なコンプレックスの塊の少女像が具体的に描かれたことが、かえって多くの少女たちの支持を得た理由であったと考えられています。つまり、アンとその青春、彼女を取り巻く世界は、読者が憧れても手の届かない遠巻きに眺める夢世界ではなく、最大公約数の女の子が「自身」を重ねて疑似体験可能なリアリティに富んだ虚構だったのでしょう。

批判的ザワつきから、作品の副次的価値が見出される

あたしの中にはたくさんのアンがいるんだわ。だからあたしはこんなにやっかいな人間なんじゃないかしらって思うことがあるのよ。もしあたしが、たった一人のアンだとしたらもっとずっと楽なんだけれど、でも、そうしたらいまの半分もおもしろくないでしょうよ。
(同上)

ざっくりいえば、明るいポジティブな少女――という印象を与えるアンではありますが、肉親の温かみを知らず孤児院で育った心の傷は、自信のない愛情に飢えた少女――という一面も彼女に合わせもたせました。やがて家族の愛を受けたアンには生来の活発さが花開いていきますが、さらにおとなになるに従って、優しく愛情深いけれども保守的な女性へと変貌を遂げていきます。こうした話の運びのせいか、『赤毛のアン』はフェミニズムやジェンダーの観点から論じられることも多く、それゆえ純血の文学的価値は低いと疑問視される声もないではありません。続編執筆にあまり乗り気ではなかったモンゴメリが、出版社や読者に求められるまま筆を進めた結果、成長したアンが保守的になり当初のキャラクター設定とは異なる矛盾を抱えてしまった、という指摘もあります。とまあそのような原理主義的な批判は置いておいて、もとより人間とは複雑な内面を抱えた生き物なのですから、ある意味ひとりの女性の心身が年を重ねるほどに変化していくのは当然のこと。アンというヒロインは児童文学の一作中人物として誕生しながら、期せずして人間が内包する矛盾に満ちた存在性をリアルに体現することになったといえるのかもしれません。

詩的フレーズによる相乗効果を狙う

尊いものはすべてのちに見つかる
探し求める者よ、前へ出よ
なぜなら愛が運命とともにたえまなく働きかけるとき
ヴェイルがひかれ、隠されていた価値があらわれるのだから
(アルフレッド・テニスン『白昼夢』/『赤毛のアン』より)

アン・シャーリーはちょっとした文学少女(という設定もまた秀逸)。おのずと『アン・シリーズ』には、シェイクスピアや、19世紀イギリスの詩人テニスンの作品の引喩がちりばめられることになりました。上に挙げたテニスンの一節は、アンが幼なじみのギルバートへの愛に目覚める青春篇、『アンの青春』の冒頭に掲げられたエピグラフです。ドラマティックな情景を浮かび上がらせる美しく荘重な詩は、そのフレーズの神聖さとロマンティックさが、共鳴する鐘の音のごとく一層増幅し豊かな余韻を残します。詩単体で読めば「古めかしい」と素通りされかねない詩なのですが、アンの物語を媒介することで、様式的な詩句が思いがけないほどスムーズに身内に入ってくるから不思議なものです。

時代に逆行しても、人間本来の素の世界観を貫こう

結局、一番幸福な日というのは、素晴らしいことや驚くようなこと、胸が湧き立つような出来事が起こる日ではなくて、真珠がひとつずつすべり落ちるように単純な小さな喜びを次々に持ってくる一日一日のことだと思うわ。
(『赤毛のアン』)

『赤毛のアン』を読んでおとなになった“かつての少女たち”が、心に残る文章として挙げることが多いのがこの一節です。ドラマティックな物語がもてはやされた20世紀初頭に、モンゴメリが“ささやかな日常の幸福”というテーマに言及したことはいかにも示唆的です。100年以上に亘って人気を博してきた『赤毛のアン』は、とりわけ日本の女性たちに愛されつづける一作なのですが、このひとくだりを読めば、なるほどそこには日本人の感性にピタリとはまる世界観や精神性が存在し、アンという主人公が読者のエンパシーを喚起しているのは間違いないと頷くことができます。

このように『赤毛のアン』シリーズには、“ロングセラーの魅力”を読み解くヒントがぎっしりと詰まっています。そして、アンの人物像についての考察は、ロングセラー小説を書くにも、童話作家を目指すにも、大いなるヒントを与えてくれるものと期待されます。
世界に名だたるロングセラー文学のヒロイン、アンは、ただ健やかな生き方を貫いた、どこにもいない、しかし誰もがなり得る女性――つまり誰のほかでもない、あなた――であるのかもしれません。読者は誰もが、自身が投影された作品を大切に思うものなのです。