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「模倣と創造」を心得て本を書く

2018年02月23日 【小説を書く】

「模倣」に罪はない!

「創造物(というとすべて神に由来するようで少々大袈裟ですが)」、つまり小説など人間の「創造による産物」とは、何もないところから生まれてくるものなのでしょうか。それは常に、いまだかつて見たことのない、まったく新しい姿をしているのでしょうか――。答えは、「NO」です。創造とは模倣の積み重ねである、とか、模倣なくして文化はない、といった箴言を耳にした人は少なくないと思いますが、これは真実を穿つ言葉です。「独創力とは、思慮深い模倣以外の何ものでもない」といったのは18世紀フランスの哲学者ヴォルテールですが、それより遥か昔から、「模倣」はクリエーションには欠かせない要素でした。

現代では、ともすると「模倣」という言葉には悪しきイメージがつきまとうようです。ブランド物などの粗悪なコピー品の存在がその理由のひとつに挙げられるでしょう。もうひとつには、「模倣」を「盗用」や「盗作」と混同する誤認識があるのではないかとも思われます。さらには、日常で耳にする「模倣」という言葉がしばしばうしろに「犯」を従えたりもするので、平たくいえば「真似」ともいえるこの言葉は、人間の生理的な嫌悪感を伴う熟語として、もはや本来の字義を離れ必要以上にダーティなイメージを帯びてしまっているようです。

物書きを志すならば「模倣」を積極活用すべし

たしかに著作権をめぐるルールが厳格化してきている現在、うしろ指を差されぬためにも、「模倣」に注意を払うことには益があります。しかしそうしたリスク排除とはまた別に、小説などフィクションを創作したい、本を書きたいと志す者であれば、むしろ「模倣」をクリエーションに活かすべく、「模倣」の何たるかを正しく理解する必要があるでしょう。「模倣」と「盗用」はある意味、天と地、水と油ほどに違うもの。「模倣」が作家にとっての陽の当たる道にある定石ならば、「盗用」とは利益を求めた確信的悪意に基づく行為なのですから、はじめから接点すらありません。

「模倣」が芸術や創作を磨くことを証明する思想が、日本には古来よりあります。「守破離(しゅはり)」といい、伝統的な芸道や武道、芸術における師弟関係のあり方を示します。「守破離」の「守」とは決められた型をひたすら守る修行で、つまり「模倣」を繰り返す基本訓練といえます。次の「破」は、型を破って自分の型を追求する段階で、最後の「離」は自分の型を引っ下げての独り立ち、ということになります。旧来の型を繰り返し模倣する鍛錬が創造的な営みの礎となると、先人達は知っていました。この「守破離」の考え方を見てもわかるように、「模倣」は安易なコピーではなく、またその次元に堕ちては「模倣」と呼びはしないのです。

短歌式「模倣」が深める創作技法

日本最古の物語は『竹取物語』といわれますが、万葉集に「竹取翁」の語が記されていることから、ふたつの成立年代はさほど離れてはいないと考えられています。万葉集は日本最古の歌集、短歌は最古の詩形式……と「最古」だらけですが、ツァラトゥストラはかく語りき、古典はかく語りき。古より詠まれてきた短歌には、「本歌取り」という技法があります。それすなわち、古歌から語句を取り入れて自作の歌を詠むという作歌法。上品そうにいうけど要するにパクリじゃね? と疑義を呈するアナタ。「本歌取り」は決して「パクリ」の雅やかな代名詞などではございません。確かに平安時代当時にも古歌の盗用と批判する声はあったようですが、それがいささか単純で偏狭な態度であることは次の二首を見ればわかります。

「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや」
(額田王『万葉集』巻1 18番)

「三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ」
(紀貫之『古今和歌集』巻2 94番)

紀貫之は万葉集の額田王の歌を本歌に二句を取って詠っています。額田王の本歌は、もう見納めかと仰いだ三輪山を、雲が隠していることへの哀しみと口惜しさが滲んでいます。一方の紀貫之の歌は、神の山に桃源の世界を想像するかのようで、本歌から二句を取っても、まったく異なる趣の情景が映しだされています。パクリやら盗作やらの卑しい心性がここにあるでしょうか。むしろ、紀貫之は額田王に敬意を表しているといえます。「本歌取り」とは、実際オマージュであり、時を越えてふたりの歌人が同じお題で詠じあおうとするかのような、創作技術を競い高めるための腕試しなのです。

鎌倉歌人が定めた「模倣」と「盗作」を峻別するルール

先述のとおり、平安末期から鎌倉の初期、「本歌取り」を好ましからずと批判する者もいましたが、今日では歌学(和歌を研究する学問)においても認められています。その功績を担うひとりは小倉百人一首の選者・藤原定家でしょう。定家は、「本歌取り」を正当な作歌技法として評価し、「盗作」と厳密な一線を引くために次のようなルールを定めました。さすが!

  1. 歌の総量の半分までを可とする量の規定
  2. 上句の七五や下句の七七をそのまま使うことを禁じる配置の規定
  3. 本歌の趣向の中心部分をとり本歌取りであることをわかるように作る引用部位の規定
  4. 最近の作者からではなく古人歌からとる引用対象の規定
  5. 本歌と主題を変えるという主題の規定
(山田奨治『日本文化の模倣と創造』角川書店/2002年)

このルールは、短歌の世界のみならず、現代の創作活動全般における“あらまほしき模倣”の本質を理解するために重要な役割を果たします。それは5番の「本歌と主題を変えるという主題の規定」。本歌から2句を取ったうえ主題まで同じであったら、もはや技法としての「模倣」の域を出、安易なモノ真似、「模倣」の正しい理解からは完全に逸脱する行為になってしまいます。たとえ悪意がなくともこれをやってしまっては、「盗作!」と謗られれば甘んじ、じっと悔し涙を飲み込むしかできることはないでしょう。

人間の内から外へ――「模倣」を「独創」へと導く絶対法則

フランスの社会学者ガブリエル・タルドは、「模倣」が社会成立の要であることを早くも19世紀に見通していた先駆者です。その著書『模倣の法則』で、タルドは創造的な「模倣」とは、人間の内部から外部へと進むべきものであると述べています。人間の「内部」にあるものとは、思想や精神性、目的意識。「外部」は、創作・創造・発信といった表現手段、と説明できるでしょうか。内から外へと向かうべき「模倣の法則」は、創作のみならずあらゆる方面において適用できる、「模倣」が独創たり得るための最重要要件といえます。「模倣」を程度の悪いコピー品に貶めないためには、この法則を安易にやり過ごすことは禁物でしょう。

創作上の「模倣」とは、その作品と作者に対する敬意のもとに行われるべきもの。一部の形を取り入れながら主題を変えるルールに則り、内から外へと、テーマを練って表現されるべきもの。己の技術を磨くべく時間を費やして取り組む、正当かつ厳格な技法なのです。そして「模倣」から生まれた作品は、その作者の独創として認められるに足る「質」を伴っていなければなりません。不幸な例を挙げるなら、どれほどのリスペクトがあり時間をかけたとしても、既存のキャラクターやストーリーを踏襲しただけの作品は、「独創」ではなく、そのオリジナルの権利を侵害していることになってしまうということです。

模倣は独創の母である。唯一人のほんたうの母親である。二人を引き離して了つたのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会へようか。
(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮社/1961年)

「模倣」は、己の技術を磨く訓練なのですから、たやすいものではないことは自明です。けれど、自分の技術や創作力の向上、「独創性」ということの意味を、これほどありありと実感できる修練法は、もしかしたらないかもしれません。またある意味では、「模倣」という行為を通して、敬意を抱く作家とその作品から薫陶を受けているようなもの、ともいえるのではないでしょうか。作家になりたいあなたにとっては、それこそ冥利以外の何ものでもないはず。さあ、折り目正しき「模倣」こそは独創への道――この言葉をしかと胸に刻んで、作家への道の確かな一歩を踏み出そうではありませんか。

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