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若き日、作家は何を書くべきか?

2019年11月01日 【小説を書く】

「若いから若い物語」のカン違い

「Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け!)」と若者たちを励ましたのは、北の国で果てしない大地を指差すかのウィリアム・クラーク博士でした。作家になりたいと胸を熱くするあなたも、ひょっとするとこの呼びかけに相応しいうら若き年齢かもしれません。では、作家志望の若者たるあなたは、どのように大志を遂げようとするのか、これからどのような小説を書こうとしているのか。いえ詩でもいい、エッセイでもいいのですが、ともかくそれはクラーク博士の高らかなエールに答えるかのように、若さに満ち満ちたものなるのでしょうか。

が、ちょっと待って。若さに満ち満ちた作品に臨む前に、ちょっと考えてみてください。若い小説家のタマゴたちが、同年代を主役とする青春物語やラブストーリーなどに的を絞って書こうとするのはなぜなのでしょう。事実、版元である私たち文芸社には、賞を開催しようものなら山という“タマゴたちの青春物語”が届きます。なぜでしょう? 自分の年齢に相応しい題材と思っているから? 背伸びしてはいけないと意識的に戒めているから? 深遠なテーマを扱う自信や経験がないから?――でも、ひょっとするとそれは早計、浅はかな判断かもしれません。若いんだから若い主人公が登場する若々しい小説を書かなくっちゃと、いうのは、そもそもさしたる根拠のない誤った思いこみなのです。

ご存じでしょうか。文豪と呼ばれた多くの作家たちは、その処女作に青春群像などは描いていません。文豪は文豪だし……といえばそのとおりかもしれませんが、これは才能や資質には関わりのある話ではないのです。作家になりたいと志す者なら、若い時分の創作や処女作に対してもっと明確な意識をもつべきであり、それが文豪の作家活動から学べるかもしれない、ということなのです。実のところ、若き日の文豪たちが描いた処女作は“青春”どころではありませんでした。そう、まるでありませんでした。

凝視すべき「身近なもの」に若さも老いもない

川端康成は14歳(数え年16歳)で『十六歳の日記』を綴りました。後年、『眠れる美女』(当ブログ記事:『「エロ」を「文学的エロス」へと昇華させるために』参照)で、老人が眠る少女に向けたエロティシズムを描いたこのノーベル賞作家が、無論、14歳の無邪気な青春日記などをしたためるはずがありません。タイトルから思い描かれるイメージとはむしろ正反対、死に向かう祖父の病状を克明に綴った日記でした。愛情と嫌悪感相半ばする感情の表出に、研究者はのちの川端文学の萌芽が見えるといいます。

次にあげる文豪は、どんなに文学や文芸の世界からかけ離れている人でも、年に2回はニュースなどでその姓を聞くことになる芥川龍之介。その若い自殺が数々の作家たちに衝撃を与えた文豪中の文豪、芥川龍之介は処女小説『老年』を23歳のときに書きました。

女の姿はどこにもない。紺と白茶と格子になった炬燵蒲団の上には、端唄本(はうたぼん)が二三冊ひろげられて頸に鈴をさげた小さな白猫がその側に香箱(こうばこ)をつくっている。猫が身うごきをするたびに、頸の鈴がきこえるか、きこえぬかわからぬほどかすかな音をたてる。房さんは禿頭を柔らかな猫の毛に触れるばかりに近づけて、ひとり、なまめいた語(ことば)を誰に云うともなく繰り返しているのである

(芥川龍之介『老年』/『芥川龍之介全集1』収録/筑摩書房/1997年)

『老年』は、放蕩の限りを尽くした遊び人の隠居した老年の姿を、ペーソスを込めて描いています。タイトルからしてもう「老年」です「隠居」です、でもこれを書いた芥川は23歳です。確かに、戦前の20歳前後の若者は、現代の同世代と比べると老成している面はあるかもしれません。しかし実体験ということでいえば、現代の若者のほうこそさまざまな面で豊富な経験を積んでいるはずだし、老成していると見えた彼らの若い軽挙妄動があるからこそ、数々の歴史的事件が生まれたともいえます。つまり、本質的に大きな違いはないはずなのです。では、23歳の創作になぜ「老年」「隠居」が出てきたのか――。それは、「老年」や「隠居」が身近にあり、未来の文豪の眼はそれを凝視せずにはいられなかったからではないでしょうか。換言すれば、現代の若者には目に入るものがあまりも多く、見るべきものもわからずよく見もしない、ということなのです。あるいは、見たくないものは見ずとも生きてゆける、見たいものだけに偏っていく傾向がある世の中といえるかもしれません。

処女作は終生のテーマを掲げるつもりで書く

ああ神様! あなたはなさけないことをなさいます。たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯この窖(あなぐら)に私を閉じこめてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです

(井伏鱒二『山椒魚』新潮社/1948年)

井伏鱒二の代表作といえば、そのひとつに『山椒魚』が挙げられるでしょう。かつて国語の教科書にも取り上げられていた『山椒魚』は、実は井伏が学生時代に書いた『幽閉』(のち処女小説として発表)を改稿したものでした。岩屋のなかで育ち過ぎて外へ出られなくなった山椒魚が、そこに迷い込んできた蛙を幽閉してしまうというこの短い物語は、旧制中学の校庭の池で飼われていた2匹の山椒魚から着想を得ています。学生時代の習作を改訂して改めて発表したことといい、その後も折に触れ手を入れ結末まで変えてしまった(そのため、作者とはいえ読者が慣れ親しんだ物語の結末を変えていいのか、と論議を呼んだ)ことといい、井伏のこの処女作への傾倒は通り一遍ではなかったのです。

このブログを末尾まで読んでくれているあなたなら、小説を書くということに真摯な気持ちを向けているはずです。それならば、若いから若い話を書く、あるいは老年だから老いをテーマに書く、なんてことをする前に、みずからに問うてみてください。そのテーマは、年齢に関わりなく、あなたが“凝視”するものなのか、終生考えつづけるほどに心に取りついたテーマなのか――。逆にいえば、いままさに凝視しているものがあり、いつ何時も心を離れないテーマがあるなら、あなたには小説を書く準備、作家になる準備が整ったということなのです。筆を執りましょう!

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