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悲劇と喜劇の処方――人生物語を書く「鍵」

2019年11月29日 【小説を書く】

「喜劇」のルーツは古代ギリシアにあり

「ギリシア悲劇」といえば、たいていの人は聞き覚えがあるところですが、「ギリシア喜劇」となると、そんなものあるの? という顔をする人は、ひとりやふたりではないかもしれません。しかし事実、古代ギリシアの時代から「喜劇」は上演されていました。各社で絶版の憂き目にあっているようですが、岩波書店さんであれば、現在も『ギリシア喜劇全集シリーズ』の入手が可能なようです。

とまあ、そもそもあまり知られていないギリシア喜劇ですが、それにしても同じ「ギリシア」の冠をかぶっているのに、ギリシア悲劇の格調高さや荘厳さと比べ、喜劇のほうはそれほど立派な威光を放たないのはなぜなのでしょう。哲人アリストテレスによれば、悲劇は優れた人間(要するに地位の高い者)の行為を、喜劇は劣った人間(要するに庶民)の行為を再現したものということですが、人格的な優劣はさておき、確かに悲劇のほうは神々や王たちを主役とした、庶民世界とは別次元のファンタジックな色調にあふれています。いっぽうの喜劇はといえば、卑猥な会話や風刺歌から発展したとされ、なるほど庶民の風俗としみったれた生活感を思わせます。

思うに、俺と道で出くわした奴らが難癖をつけるだろうよ。こんな時間に酔っぱらってうろついているのは何事だ、といってね。へん、あたぼうめ、あのお日様みたいに明るい提灯が、いったい全体、どこにあるってんだい。

(ギリシア喜劇『神懸かり』)

その滑稽さにこぼれる笑み。アリストテレスの言のとおり、一般庶民の人生には喜劇の本質が潜んでいるということなのでしょうか。だとしても、悲喜こもごもの人生物語にギャグをちりばめてもコントにしかなりません。「喜劇」という語から何を連想するかと道行く人に訊ねれば、ダントツ1位は「吉本新喜劇」ではないかと容易に想像できるくらい、現代日本において「喜劇」に対する認識はほぼ固まっています。ですが、古代ギリシア時代の思想を見るように、「喜劇」がもつ本来の意味は「=お笑い」というほど短絡なものではないのです。となれば、この喜劇に関しグッと掘り下げて考えてみることが、小説家になりたい、人間の物語を創りたいと志す者にとって、徒労になろうはずがありません。

喜劇王と文豪、それぞれの処方

文学界や映画界において、「喜劇」はさまざまな解釈で作品化されています。喜劇王チャールズ・チャップリンは「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot)という言葉を残しています。チャップリンは数々の喜劇を演じ制作もしましたが、実際、それら作品の登場人物や時代の背景は悲劇的なもので、苛酷な現実を抉り出すとともに、切れ味鋭く社会を風刺しました。そして、まさしくギリシア喜劇における起源も、「風刺」や「皮肉」なのです。捨てられた子ども、工場労働者、盲目の娘、狂気の独裁者……それらを描く世界は途方もなく貧しくじめじめと暗く、苦難に溺れかかった人の運命は“近くで見る悲劇”そのものです。チャップリンは、そんな人生を遠くから俯瞰して悲喜劇に見立てるのではなく、悲惨な運命の物語に笑いをまぶして救いを与えた、といえるでしょう。

このわしの命は、ふたりの娘のうちにありますんじゃ。あの子たちが楽しい思いをし、幸せで、きれいな格好をしていれば、絨毯の上を歩くことができれば、わしがどんな服を着ていようと、どんなところで寝ようと、どうだっていいじゃありませんか? あの子たちが暖かくしていればわしも寒くない、あの子たちが笑えば、わしも退屈しませんのじゃ

(バルザック著・平岡篤頼訳『ゴリオ爺さん』新潮社/1972年)

オノレ・ド・バルザックは、人生にもがき破滅していく人々を描く著作群を「人間喜劇」という総称で呼びました。これはなにも一大コメディーシリーズを構想したのではなく、ダンテの『神曲』の原題『神聖喜劇(La Divina Commedia)』になぞらえた人間社会研究を意味していたわけですが、フランスの文豪のこの考え方は、悲劇を俯瞰すると喜劇であるというチャップリンの主張と軌を一にしています。ただバルザックは、物語そのものに笑いの要素を加えることは一切なく、理不尽で薄っぺらな社会に迫害される登場人物たちに、ほぼ例外なく無惨な末路を用意しています。上に挙げたゴリオ爺さんは、娘たちに金を与えるだけ与えた果てに、着の身着のまま非業の死を遂げました。しかしてバルザックは、そのような物語群の巨大な俯瞰図が示す社会そのものに喜劇の本質を見たのでした。

会得しておきたい、悲劇と喜劇の構造

チャップリンもバルザックも人生の悲劇を喜劇に見立てましたが、滑稽な成り行きが凄惨な悲劇に転じることもあります。2019年10月公開となった話題の米映画『JOKER』。公開のおよそ5か月前に届けられた特報映像では、ホアキン・フェニックス演じるジョーカーの台詞がひとつだけ明かされました。特報とは通常、クランクアップよりはるか前につくられる“予告の予告”ともいえる映像です。つまり、素材としての映像がまったく出そろわない状態で制作した特報での唯一の台詞――となると、それが映画『JOKER』においてどれだけ重要であるかがわかります。

俺の人生は悲劇だ
いや違う
喜劇だ
(原文:I used to think that my life was a tragedy, but now I realize, it's a comedy.)

(映画『JOKER』日本版特報より)

人々に笑いを届けようと懸命に生きてきたのに逆に虐げられるばかりの主人公。その熱意はいつしか狂気に化け弾けます。世にも恐ろしい“喜劇”の幕が開ける瞬間です。悲劇に笑いをまぶしたチャップリン映画とはまさに表裏の構造をもったネガ・フィルムさながらの本作は、悲劇に怒りを加えたことでいっそう大きな化学的爆発を起こしたかのようです。「人生物語」と文字を書けば、どこかのんびりほのぼのした空気を醸すものですが、「作品」と呼ぶに値する人生物語とは、ダンテが『神曲』で天国と地獄を描いてみせたとおり、神と悪魔――善と悪――に振れる心を描いたバイオグラフィーだけなのかもしれません。

人生の悲劇も喜劇も、それぞれに悲しみと笑いで成り立っているのではなく、ときには同じひとつのものであったりもします。悲劇も喜劇も、表面に現れた涙や笑いだけでは測れない成り行きと事情、そのなかでの人の心の変遷があるのです。本来はそれほど奥深い悲劇と喜劇。その本質を考察することで得られるのは、人生物語を紡ぐ際の処方です。そのエッセンスを手にしたなら、本を書きたいあなたの筆は一段も二段も深められることでしょう。

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