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ハードボイルドの名作が描く“別れ”の極致

2019年11月22日 【小説を書く】

不用意に扱うとケガをする「別れ」

あらためて書くのもなんですが、「別れ」といえば「悲しみ」と同義語のようなもの。ゆえに、感情移入しやすく、ゆえに、作家は思いきり悲しい別れを描こうと躍起になる――。「お涙頂戴」とはけだし至言ですが、作家や編集者はしばしば、いかにしてそれこそ涙が枯れるほどに泣かせるかと悪巧みを巡らせ……いや、知恵を絞るのです。けれど、そんなふうに“泣かせ”前提で描かれた別れの物語が上等なものになるかというと、そうでないことは皆さんよくおわかりでしょう。明け透けに見える作為に人は鼻白み、下手をすれば涙どころか逆に失笑を洩らすなど、本末転倒にもなりかねません。だから心しましょう。気安く「別れ」を描いてはいけません。上質な別れを描くことは難しいもの。安易な泣きの別れのシーンがアダとなりすべてを台なしにしないためには、ここはひとつ、真剣に「別れ」を研究する必要があるでしょう。

まずは、泣かせることを目的として「別れ」を用いようという下心をきれいさっぱり捨て去ることをお奨めします。マインドコントロールのごとき「泣き」のセオリーにハマった果ての号泣より、胸の奥が熱くなり気がつくとその熱がまぶたまで迫っていた――という涙のほうが、のちのちまで忘れがたい別れの証明なのはいうまでもありません。つけ加えるなら、そのような別れに感度を働かせるべく切磋琢磨したほうが、作家としてもよほど実りある成長が見込めるのではないかと思われます。

世界中の読者の胸を熱くした探偵小説の「お別れ」

「別れ」といえば、有名無名の男たちや男前な女たちや酸いも甘いも噛みわけた大人たちが、そろってぞっこん惚れ込んだミステリーがあります。ハードボイルド小説界における世界一有名な探偵ヒーロー、フィリップ・マーロウを生みだしたレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』です。日本での最初の出版は、1958年の清水俊二訳(世界探偵小説全集)でしたが、2007年になって村上春樹の新訳版が『ロング・グッドバイ』として同社から刊行の運びになっています。そう、以前当ブログでもちらりと触れましたが、『長いお別れ』は、村上が最も影響を受けた作品として挙げた3作のうちの1作なのです(『「ロスジェネ」の名品に時代の創作を考える』参照)。

実際、『長いお別れ』(今回本文中のタイトルはこちらで統一)が名作と評価される理由に、別れの描写が大きく関わっているのは論を俟たないところです。チャンドラーの抒情的・散文調の独特なる文体のファンは多く、フィリップ・マーロウの世界はこの文体が生みだす陰翳とクールな切れ味に満ちています。クールな探偵ものというと、うっかりするとパロディ化されたりコントのネタにされたりの危うさもありそうですが、チャンドラーとフィリップ・マーロウはそんなおちゃらけたアプローチを許さぬ本物の風格をもっています。『長いお別れ』の別れの味は、このマーロウのキャラクターと、チャンドラー特有の散文的・抒情的文体が醸成したものといってよいでしょう。

とはいえ、チャンドラーの文体をマスターするなど土台無理な話(英語だし)。代わりに『長いお別れ』の別れがどのように描かれているのか、解析してみましょう。『長いお別れ』は、マーロウと謎の酔いどれ男テリー・レノックスの友情の物語です。友情といっても、熱く互いを確かめあうような友情ではありません。ふたりは孤独な醒めた心に響きあうようなものを互いに感じるのですが、「親友」と呼び合うようなベタついた雰囲気は醸しません。それは、触れることも眺めることもなく、胸の奥に仕舞いこまれた友情でした(と書くと同性間の秘めたる恋慕を連想しますがそれとは違う)。ふたりの友情を示す象徴的かつ印象的な一幕があります。警察からある容疑をかけられたテリーの無実を証明しようと、マーロウが深夜の街を奔る(はしる)場面です。醒めて寡黙なマーロウのその姿に、知らず胸が震えます。そんなふうにチャンドラーは静かに抑制を効かせ、殺人事件の謎を絡めながら、別れに向かうストーリーを織りあげていきました。

「別れ」の名シーンでは、あえて感情を描かない

消息を絶ったまま死んだと思われたテリー。しかしその死は偽装でした。そして、彼もまたマーロウへの友情を捨てがたく、最後に姿を現します。この酔いどれ男テリーに添えた小道具として重要な役割を果たすのがギムレット(ジンとライムジュースをシェイクしたカクテル)でした。

ギムレットにはまだ早すぎるね

(清水俊二訳『長いお別れ』早川書房/1976年)

テリーの問いかけに、殺人を食い止めることのできなかった誇り高い探偵のマーロウはこう答えます。

さよならは言いたくない。さよならは、まだ心がかよっていたときにすでに口にした。それは哀しくて、孤独で、さきのないさよならだった。

(村上春樹訳『ロング・グッドバイ』早川書房/2007年)

クールや洗練を意図して書かれたものではない、完膚なきまでの拒絶の言葉。それは、一度は友情の通った者同士の決別――「長いお別れ」――を告げる言葉でした。

文学や芸で人を泣かせるというのは、確かにたいした技術です。ですが、小道具をそろえシチュエーションを整え、読者の涙腺を刺激しようとすれば、どこにでもあるような別れの舞台しかつくり得ません。つらい境遇から立ち直って人生を切り拓き、幸福を手にしたと思ったとたん、不治の病に侵され桜のように散る――。そりゃ泣きますよ、絶対泣きます。泣きますが、そんな呼び水に誘われて流す涙は、真の感動とはまた別の生理現象なのです。精神が崩壊するほどの大きな悲しみに襲われると、人は涙すら忘れてしまうといいます。作家になりたい人、読者の心を揺さぶる小説を書きたいと思う人は、考えてみてください。感情を露わに表現するのではなく、感情を表立って現さない姿こそ、別れの名シーンを演じる姿かもしれません。『長いお別れ』はそれを教えてくれるよきテキストです。

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