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童話を書くためのエッセンス“大人の気づき”

2023年07月04日 【絵本・童話を書く】

いまこそ再読したい「名作児童文学」

物語を書くために必要なもののひとつに、ご存じのとおり「テーマ」があります。それはもちろん、絵本や童話、児童小説においても同じ。しかしながら、とりわけアマチュアの手になる子ども向けジャンル作品においては、しばしばこの「テーマ」が容易く扱われている感も抱きます。たとえば「笑顔」をテーマとした作品で、ただ「ハッピーになろう」「とにかく笑おう」と連発し、笑顔こそがすべての希望へとつながるんだとばかりに、笑顔を無敵の前向きツールとして扱う──と。それでは、言葉は訴える力をもたぬまま、“言葉”という形だけの“記号(=コード)”に終わってしまうおそれがあります。子ども向け作品だからと安易に考えてはなりません。言葉っ面だけでは年若い読者の胸にだって響くことはなく、書き手と読み手のあいだの温度差は開くばかりです。いえむしろ、感性が純粋でスポンジのような吸収力をもつ子どもだからこそ、描く「テーマ」にはいっそう、真に訴える力を宿らせなければなりません。読まれる絵本や童話を創るためには、ハッピーになるにはどうしたらよいか、そもハッピーとは何か、前向きになるにはどのようにあるべきか、なぜ前向きになる必要があるのか──それを教えるに足る、確かな意識と論理が書き手には必要なのです。この一種禅問答のような4つの問いに、せめて喋り言葉のような平易な方法で、第三者を「ほぉ……」と感服せしめるぐらいでないと、それを絵本や童話という作品に落とし込むことは難しいはずなのです。

じゃあ具体的にどうすればいいんだよって話になりますね。ここでひとつ、腑に落ちやすいよう、こんな問いかけからはじめてみましょう。もしあなたが作家になりたいと思っているのでしたら、あなたはきっと読書好きで、子どものころには絵本や童話にも相応に親しんでいたことでしょう。範囲を広げて、漫画やコミックでもいいです。そうした作品に触れるなかで、喜んだり憤慨したり悲しんだりした経験はありますよね? やるせないとか、切ないとか、もどかしいとか、喜怒哀楽とはっきり区別できないようなブルージーな心境に陥ったことだってあるでしょう。それすなわち、子どもながらに心を動かした証。大袈裟にいえば「感動」を得たということにほかなりません。児童文学を志すあなたは、その「感動」をいまこそ再体験し、子ども時分の自分がなぜ感動したのか、“大人としての気づき”を得なければなりません。そこで提案したいのが、幼少期に接した児童文学など一連の作品群の再読です。

死に瀕した子どもの心の再生物語が描くもの

再読といっても、無数の作品を時系列順に読んでいくというのも無理があります。そこで一番手に挙げられるのは、自分が描こうと考えている絵本・童話の対象年齢と近い年代に自分が触れた作品。識字前の乳幼児を対象とした絵本を描きたいなら、擬音や擬態以外文字がなく、絵とページ展開で魅せる作品。逆に思春期に近いティーンを対象とした児童文学を書くのなら、絵本などではやはり力不足で、より深いテーマを捉えるために、中編・長編レベルの児童小説を読むことをお奨めします。教材テキストはお好みでかまいませんが、自分がかつて感銘を受けた作品であることは必須で、加えて「名作」の評判があれば必ずや得るものがあるでしょう。今回当ブログがテキストとして選ぶのは、バーネット作『秘密の花園』です。

メアリ・レノックスが叔父の住む広大なミッスルスウェイト屋敷に送られてきたとき、十人が十人、こんなにかわいげのない子供は見たことがないと言った。たしかにそのとおりだった。肉づきの薄い小さな顔に、貧相な体格。色あせたような髪がぺたんと頭に貼りつき、表情は不機嫌そのもの。髪も顔も黄色っぽいのは、メアリがインドで生まれ、ずっと病気がちで育ったせいだ。

(バーネット著/土屋京子訳『秘密の花園』/光文社/2007年)

フランシス・ホジソン・バーネットはイギリス生まれの小説家で、『小公子』『小公女』などの名作児童小説でも知られています。この3作品はいずれも、一見何不自由なく安楽に暮らす上流家庭の子どもを主役に、社会や大人たちの残酷さを暴き出して、主人公の苦難や傷心を描いています。物語に映し出される残酷さとは何なのか、子どもたちがそれを乗り越えるなかで得る感動とはどのようなものなのか──。

『秘密の花園』は、ひと言でいってしまえば、イタい(ただ「痛ましい」のとはちょっと違います)境遇にある子どもの再生を描くお話。物語にはそんな子どもがふたり登場するのですが、主人公のメアリは上掲の引用箇所のとおり惨めな思いをしており、そもそも叔父の屋敷に引き取られたのは、彼女の家族がひとり残らずコレラで死んでしまったからでした。もうひとりの主人公は叔父の息子、メアリからすると従兄弟にあたるコリンで、ある病を疎まれベッドに放置された状態で生きていました。ただ、誤解のないように付記しておくと、メアリでいえば引き取り手のないなかどうにか養子となって不遇時代を過ごし……、コリンでいえば地下牢に幽閉されて……みたいな想像をしがちですが、どちらかというとふたりとも親から顧みられない不幸に見舞われてはいるのですが、そのぶん使用人に甘やかされてワガママ放題、傍若無人に育っていたのです。つまり大人目線で彼らが“いけすかない”のは、一片の愛情も与えられないために心が死んでしまっているからだったのです。現代でいうネグレクトの犠牲者である彼らは、しかし自力で再生を遂げていきます。それは見守ってくれるいくらかの人間、そして「秘密の花園」との出会いがあればこそでした。

心が死んでしまったかのようなメアリとコリン、けれど子どもの心の核には、何人たりとも侵せない「純粋」と「強さ」があることを物語は暗示しています。作品名でもある「秘密の花園」とは、叔父クレイヴン氏の屋敷の広大な敷地の片隅にある打ち捨てられて荒れ放題の庭園のこと。実家でも叔父の屋敷に来ても放ったらかしにされたメアリは、この庭園を見つけると手入れをはじめ、次第に夢中になっていきます。土をいじり花を植えるうち、身体は健康になり心も明るくなっていきます。そんなメアリと出会ったコリンも、ベッドから出て庭園づくりに参加するようになって、次第に健康を取り戻していくのです。そもそもコリンの病気は、父親クレイヴンの極端な被害妄想の産物のようなものでした。自分が背の曲がった障碍者と信じ込んでいたクレイヴンは、生まれた息子コリンの弱々しさを見て、同じ病気だと信じ込み息子を遠ざけたのでした。ある意味、作中でもっとも病んでいるのがこの男クレイヴンなのかもしれません。そんなものですから、ある日遠い旅から帰ったクレイヴンは、健康的に庭を走りまわる息子を見て驚倒します。そうして彼も初めて、自分の心と向き合う勇気を得たのでした。死んだ心の再生を最後に果たすのが大人だという点も、なんとも示唆的ではないでしょうか。

“大人の気づき”を武器に、さあ絵本・童話創作に挑戦しよう

絵本・童話創作の起点とすべく児童文学を再読する限り、そのなかにある象徴の正体、テーマの本質、そして確かな意図をもって配置された人物の役割を読み取っていくことが重要です。『秘密の花園』では、荒れ果てて見る影もない庭園が、メアリとコリン、さらに叔父の内面風景を表していると理解できるでしょう。それはまた、登場人物に限らず、愛を知らず見捨てられた人間の心の象徴でもあります。また、バーネットがそれを「花園」として描いたのには、より細やかな意図が含まれていたことでしょう。土という自然、水と養分を蓄え命を育む土壌、命をまっとうしたものはやがてまた土に還り……。自然と切り離して考えることができない人間という存在もまた、同様のエコシステムをその内面にもっているといえます。もちろん、幼い日の読書においてはそのような論理的読解がなされるわけではないでしょう。しかし、こうしたことへの意識を、子どもが感覚的・本能的にもつことと、大人が真理を理解して体内に取り入れることは、呑み込みのプロセスが違うだけで同じだといえます。児童文学ではしばしば重要な命題がやさしく平明に扱われています。ですから、絵本や童話の創作に取り組もうというあなたが、児童文学をしっかりと再読することには大きな意味があるのです。

いま、在りし日に親しんだ児童文学に再度触れたあなたは、童話や小説を書くことに対する新たな姿勢への“大人の気づき”を得たはずです。そんなあなたの描く絵本・童話は、これまでにない深みをもってきっと読者に届けられる──心からそう期待しています!

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