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人生物語の深化と「信仰」の関係とは

2020年06月22日 【作家になる】

無宗教を自覚する日本人でも無視できない「信仰」の観点

ひとりの人間が生きる実人生とは、もしかすると波瀾万丈な小説よりも断然ドラマティックかもしれません。いやいやあっしの人生なんぞ平平凡凡ですゼ……、と卑下する人もいましょうが、果たして本当にそう言いきれるでしょうか。傍目には一見何の変哲もなく、さしたる嵐も吹かない年月に思えたとしても、その胸の内はどうだったのかと。むしろ人生の真実のドラマとは、行動の伴う経験と出来事が列記される年譜の上にではなく、人の胸の内にこそ起きるのではないでしょうか。

とはいえ多くの日本人は、自分の内側で起きるドラマを、正確に識別し判定する尺度や基準をもたないのかもしれません。大衆が不見識だというのではありません。ここでいう規範や尺度とは、「信仰」に裏づけされた哲学・思想のこと。どんな博識な論客でも、客観的な視座を誇る作家でも、あるいは半生記や自伝小説を書こうと己の人生をまじまじと見つめ直している人にしても同じです。学術や人生訓としてではなく、宗教的体験として哲学・思想を会得していない限りは、同じなのです。

日本人の大半は無宗教であるといわれています。その良し悪しはこの際脇に置くとして、無宗教、すなわち信仰に縁が薄いがゆえに、西洋社会に触れたとき、理解不能の状態に陥る、あるいは頭では理解はできるがよくわからない……との思いに囚えられることがあります。それは文学に接するにあたっても同様で、モーリアックの『テレーズ・デスケルウ』もトルストイの『アンナ・カレーニナ』も、キリスト教信仰の知識が乏しければ真に理解することは難しいでしょう。そしてこの「信仰」、西洋社会においては、作家が自らの人生を検証する上でも深く関わってくるのです。

信仰=贖罪? 懺悔? いえ、描かれるのはもっと深遠な世界

一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし

(新約聖書「ヨハネによる福音書」より)

『一粒の麦もし死なずば』(1921年刊)は、ノーベル文学賞を受賞したフランス人作家アンドレ・ジッドが綴った自伝です。タイトルは新約聖書「ヨハネ伝」の一節に由来し、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも引用されています。ジッドはなぜこの一節を用いてみずからの半生の物語を書いたのか。それは本書が贖罪の念を込めた告白の書であったから――という見方は多いようです。幼年期から青年期まで、自己愛、同性愛、その他諸々の悪癖(その当時としては)をなぜそこまで露にするのかと友人たちは止めましたが、ジッドは出版に踏み切りました。そこには、両親から叩き込まれた厳格なプロテスタンティズムと、作家としての矜持が複雑に溶け合った心情と動機が覗きます。確かに贖罪の念もあったのでしょう。しかし『狭き門』(1909年刊)で既に“救い”をテーマに求めたジッドが、単に贖罪を表すためにここまであけすけに生き方を晒すでしょうか。

一般的な日本人を念頭に考えてみましょう。仮に、作家になりたいと思う無宗教の日本人が、己の失敗や罪を赤裸々に告白した自伝を書いたとすれば、それはおおかた自虐的な色合いを帯びるか、脚色がなされドラマ的な興趣を重視した作品になるものと予想されます。でも、それと同じ目線では『一粒の麦もし死なずば』の本質に触れることはできません。「信仰」というフィルターは、少なくとも無宗教である立場の者にとっては、それほどに特異であるに違いないものなのです。

今日まで僕はキリストのモラルを受け容れてきた。いや、キリストのモラルとして教えられた一種のピューリタニズムを受け入れてきた。それに従って生きようと努力した結果、僕に与えられたものは、自分の全存在の深い混乱以外の何ものでもなかった。

(アンドレ・ジッド著・堀口大學訳『一粒の麦もし死なずば』新潮社/1969年)

『一粒の麦もし死なずば』は、抑圧された少年期を描く第一部と、同性愛を含む愛の遍歴を描く第二部からなります。小説でいうならまったく異なるテーマ。おそらく第一部の幼少時代だけ切り取ったって、物語は美しく幕を下ろせたはずです。いっぽう愛の遍歴を綴る物語としては、同じ題材を扱った小説(『背徳者』1902年)を発表済み。ではジッドはなぜ、すでに小説として描いた内容を、異なる色調であるに少年期を描いた第一部とともに、あらためてひとつの作品に収めることにしたのでしょうか。それを考える鍵が、先に引いた「ヨハネ伝」の一節にあるのではないかと思います。

人生物語は素材を選ぶ眼をもって織りあげていくもの

「一粒の麦は、もし地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」――イエスのこの言葉は、ひとつの死と実りある再生の姿を説いています。プロテスタント教育が染みついたジッドは、自身に向けられる非難に先まわりしようとするような少年でした。そして、そんな自分に罪悪感を抱くのです。にもかかわらず、第二部の背徳的な愛の彷徨に宗教的贖罪の念は感じられません。要するに、キリスト教の教えから逸脱した生活を「罪」と自覚しつつも、自分の性癖や生き方を素材化することで、ジッドは作家として「再生」した己の姿を半生の物語のなかに刻もうとしたのではないでしょうか。

「一粒の麦もし死なずば」――ジッド流、死と実りある再生の物語というわけです。

『一粒の麦もし死なずば』は、作品の本質や作家の実像を考える上で興味深いテキストです。想像してみてください。テーマのない絵、描きたいからと何でもかんでもやたらと描き込んだ絵が、鑑賞者の心を打つでしょうか。作家になりたいあなた、自分史や自伝小説を書くと目標を定めるあなた、半生を振り返りただ時系列に紡ぐ前に、自らの「生の芯」となっているものや特異性に思いを致してください。あなたの人生は、大きな過ちや障害、難事等々、特別な何かを経験したからこそ、あなたならではのくっきりとした色に染めあげられているのではありませんか? その何かを見極める眼こそが、人生の物語に鮮やかな精彩と深みをもたらしてくれるのです。人生物語とは、生の足跡を書き込むログ的な記録ではなく、ひとつの観点から素材を選び抜いて織りあげていくことで、はじめて作品としての“格”を具えるものなのです。

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