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死が分かつ恋の物語研究

2022年01月24日 【小説を書く】

「死別」がもたらすテーマを凝視する

いささか古い言いまわしに「お涙頂戴」という文句がありますね。泣けますよ、泣かせますよ! とにじり寄ってくるような見え透いた演出意図を指す言葉ですが、視聴者、観客も、泣くことへの期待満面にこれには誘われていくようです。なぜ人はそんなに泣きたいのか、泣くというカタルシス効果はそれほど大きいのか、ということへの追求はさておき、作家になりたい者としては、泣かせる小説について理解を深めても損にはならないでしょう。いやそれどころか、どの時代においても需要のある「泣く」という感動の極みについて、誰よりも理解できたとしたなら、それは小説家としてひとつの極みの境地に触れる大収穫と申せましょう。というわけで今回のお題は「泣く」、……でもいいのですが、それだとあまりに広範なテーマとなってしまうので、「泣く」が常にセットで扱われる「恋物語」をフィーチャーしてみたいと思います。恋物語における、お涙頂戴的浅薄な演出と本物の涙の、天地のごとき差をしかと見定めようではありませんか。

恋物語でわけても涙を誘う結末といえば別離、不謹慎な響きになることを恐れずにいえば「死別」に勝るものはありません。生き別れとなれば、悲しみの向こうには未来や希望の光も覗いて、感涙のなかに清々しささえ香り立つというものです。しかし、死別となれば未来が失われた真正の別れにほかなりません。だからこそ、そこをどう描くか、そこに生じる情緒の質をどうアレンジするかで作家の手腕が問われるのです。もとより死そのものが悲しみに直結しているのですから、この条件に頼るだけでは弱すぎます。フィクション(=ツクリモノ)であることが最初かわかっている以上、読み手は書き手の期待を裏切って残念なほど冷静なものです。うまく泣かせたとしても、うっすらとした涙が乾くくらいの束の間の共感がせいぜいというところ。つまり、よい小説(その上泣ける)を書きたいと志高くするなら、愛し合う者同士の死別がもたらす「何ものか」を凝視して探り出さなくてはならないのです。ご存じのように、死別を描く恋物語は世に星の数ほども存在します。書店の平台に並ぶ新刊の帯を見れば一目瞭然、溢れ返っているといってもいいでしょう。けれど、そのなかに「お涙頂戴」の域を上から見下ろす“天上の作品”がどれほどあるかといえば、決して多くはないのです。

死別を定められた生活の幸福と美しさとは

堀辰雄の『風立ちぬ』は、結核による死別を覚悟しながら、ともに生きる男女「私」と「節子」が幸福を見出していく物語です。タイトルは、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を採っています。「風立ちぬ、いざ生きめやも(Le vent se lève, il faut tenter de vivre.)」──風が吹く、さあ、生きていこう──。一陣の風に生の息吹を感じて、死の悲しみではなく生の幸福を見つけようとする意志が冒頭部にすでに高らかに表明されています。

とはいえ死は、許婚のふたりの上に折に触れ重い雲のように垂れ込めます。節子より軽症の患者が自殺したなら、死は順番に訪れるわけではないのだと胸をなで下ろす「私」。病に苦しみながら自分の犠牲を犠牲と思わず、自分の軽はずみな点ばかりを責める節子。そのいじらしさを愛おしむ「私」の心に兆す、迷いと不安──。

いつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共に愉しむようにして味わっている生の快楽──それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、──それは果して私達を本当に満足させ了(おお)せるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?

(堀辰雄『風立ちぬ』/新潮社/1951年)

死と背中合わせにある節子の心情を慮りつづけた「私」には、やがて作家としての自らの仕事への意識がひとつの形を結びはじめます。それは同時に、彼女自身が幸福であってほしいという強い願いの発露でもありました。

おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、──皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、──そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。

(同上)

節子が収まるサナトリウム近くの森を歩く「私」は、付添人用の部屋で自身も暮らすその建物を遠くに眺め、病人に囲まれながら何気なく毎日を過ごす生活の奇妙さを思います。しかしそれこそが、彼らふたりにとっては唯一真の生活なのでした。小説家である「私」は、感謝しながら死んでいく純粋な娘、その気高い死者に幸福を教えられる男──そんな物語を夢想した自分を恥じます。一方、病身の節子の心に安らぎを与えていたのは、いつか「私」が口にした、この生活をあとで思い出したらどんなに美しいだろう、という言葉でした。“美しい生活”──それは無論、きれいな調度や環境ではなく、精神的な美しさを意味しています。

ふたりの生活風景は、いつしか透明感を帯びていきます。死の意識が遠退くことのない生活には怖れも寂しさもあれば悔いもある。けれど、互いの存在を確かめ合うだけの静かな日々の営みには、不思議と愉しささえも鏤められている……。永遠とは時間の長さではなく、時をとどめた美しさのなかに凝縮されるのかもしれない、そんなふうに思われてきます。

『風立ちぬ』は堀辰雄自身の物語、重い病に冒された婚約者とともに生きた日々を描いた物語です。死別を覚悟した作家とその恋人は、実生活においては抱き合い涙したに違いないはずですが、小説にはそのようなシーンは描かれません。たとえ一滴の涙も流されなくとも、ふたりの心は怖れと不安と悲しみに揺さぶられました。揺さぶられながらも、生の愉しさ、幸福を感じていたのです。

死別の悲しみとどう向き合うかで小説の書き方が決まる

サナトリウムでの暮らしが終りを迎えた数年後、節子が旅立った同じ冬の季節に「私」は施設が建つ谷を再び訪れます。おそらく小説の何章かをまとめようとしているのでしょう、ひとり山小屋を借り、書き物机に向かいながら、なぜこの谷が別荘をもつ外国人たちに「幸福の谷」と呼ばれているのか考えます。自分には「死のかげの谷」と呼ぶほうがふさわしいのに……と。

私の前方に横わっているこの谷のすべてのものは、最初のうちはただ雪明りにうっすらと明るんだまま一塊りになってしか見えずにいたが、そうやってしばらく私が見るともなく見ているうちに、(中略)いつの間にか一つ一つの線や形を徐(おもむろ)に浮き上がらせていた。それほど私にはその何もかもが親しくなっている、この人々の謂(い)うところの幸福の谷──そう、なるほどこうやって住み慣れてしまえば、私だってそう人々と一しょになって呼んでも好いような気のする位だが、……此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざわめいているというのに、本当に静かだこと。

(同上)

節子の魂を支えていたふたりの生活の美しさを、谷間の明かりのなかに見る「私」。そこにはまた、静かさと、幸福のほんのりとしたあたたかさがあります──。

堀辰雄ならずとも、愛する者との死別がどれほどの悲嘆、喪失感をもたらすかは多くの人が知っています。そこにただただ「涙」を描くのか、「何ものか」を探してみるのか。それは書き手次第です。もちろん「お涙頂戴」の読者の要求にだって、全身で応えようとする気がまえは称賛に価します。重要なのは、徹頭徹尾の本気の姿勢になるのでしょう。泣かしてやろう、泣かせればいいんでしょ?──の態度でつくる物語では、読み手への満額回答とはなり得ません。そのはるか上を行く人間洞察をもって当事者の内面や感慨を描いてこそ、読者を完全に引き込む“泣ける恋物語”が書けるのです。

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