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詩作のための「ポジティブ」考察

2018年10月19日 【詩を書く】

現代社会における「ポジティブ」とは何か

「ポジティブシンキング」とは、直訳すれば「積極思考」。会話のなかで使われる際も、まあ基本的にはこの直訳のとおり、積極的・楽観的に物事を捉えようという姿勢や考え方になるでしょうか。1990年代に流行した言葉で――と聞くと意外に思うほど、いまなお現役バリバリで特段古臭くもないフレーズです。世代を問わず使われ、もはや普通名詞化した感もある「ポジティブシンキング」。そこまで世の隅々まで行き渡るとなると、なるほど「ポジティブ」とは、現代では日常的な定番表現のひとつになっているということなのでしょう。世の中全体が、互いに励まし合ったり、エールを送ったりと、そういう方向に向かっていることを「ヨシ!」とする前提がいまの社会にはあると……。

ただし、詩人になりたい(あるいはすでに詩人であると自認している)あなたとしては、ここでちょっと考えてみる必要があるわけです。ただ者ではない、フツーとはちょっと違ったセンスを備えているのですから、全体が右向け右!したのなら、やはり左(あるいはあさって)を向く気概がほしい。そんなあなたを「ひねくれ者」呼ばわりする体制と闘ってほしい。マイノリティの心に寄り添う前向きな一編を書くのはけっこう。けれども、普通名詞にまで堕ちたポジティブシンキング思想を、愚直な態度で詩に織り込んでしまってはなりません。

当節、励ましのメッセージほど、もはや掛け声同然に手軽に発せられているものもありません。だいたい、人間という存在を機械的にポジティブ化する一編の文学作品、あるいは一冊の本がそのへんで見つかるわきゃないんです。ましてや、たったひと言ふた言の魔法のようなフレーズとあっては、何をかいわんや。

危険な励ましの言葉

ポジティブシンキング的態度を表す際の代表格、たとえば「がんばろう!」「負けるな!」といった言葉は、本来軽々しく用いられるべきではありません。スポーツ観戦のようなシーンは別として、シリアスに真顔で、とりわけ精神的に苦しんでいる相手には、絶対に発してはならないNGワードです。なぜなら「がんばる」ためには、「負けない」ためには、それを言われる側の人個人のなかに、苦しいほどの努力の蓄積が必要なわけで、ともすると「がんばれ」の声掛けは、いやいやそれができないからこの状況にあるのでしょ……という相手に、さらなる心理的抑圧を与えることになりかねないからです。また裏を返せば、「がんばれ!」と言われ本当にがんばって成果を得られるのであれば、そもそもがそれほど深刻な状態でもなかったということになるのでしょう。

さて、あなたの詩作ノートを開いてみてください。最初のほうのページこそ「がんばれ」「負けるな」「そばにいるよ」「ひとりじゃない」等々といった邦楽ヒットチャートでお馴染みの励ましフレーズが並んでいるかもしれませんね。まあそれはそれとして、いくらページを繰っても相も変わらず同類のフレーズが見られるとすれば、それは要注意。ポジティブという名のもとに、知らぬ間にどこかで罪を働いてしまっているかもしれません。それは避けたいですね。というわけで今回は、そんな安易なポジティブフレーズに代わる真の「ポジティブ」について一考するお話です。

「自分への怒り」は「ポジティブ」への第一歩

すべてとはいいませんが、大半の人にとって、ポジティブ思考に基づき自然に行動を起こせるとすれば、心身にはよい作用がもたらされるはず。似非ポジティブフレーズは非難されても、ポジティブ自体には何ら罪はなく、やはり万人にとって良薬なのです。ですから、ポジティブであれ、という提言が健やかかつ有意義なメッセージであることは間違いありません。ただし、そのような詩を書くにあたって求められるのは、ポジティブなフレーズとは何か、ではなく、ポジティブな考え方へ導く詩の風景とは何か、という思索なのです。その風景にこそ思いを巡らしましょう。

たとえば「孤独」。人を孤独から救うのは「ひとりじゃない」という耳もとでの囁きではなく、「ひとりじゃない」と心底思える環境です。しかし残念ながら詩や創作物に、環境をつくることはできません。母子や父子、あるいは恋人同士と違って、1対1の対面の時間を相応の時間確保し得ないからです。詩など創作物は、いってみれば1対万人(しかも作者も未知の不特定多数)。その条件下において対象に何ができるかといえば、読み手の心や感性の網膜に「環境」を映し出すことなのです。それがすなわち、ポジティブな考え方へ導く詩の風景を見せること。読者とは、小劇場にぽつんとひとり座るお客さまにも喩えられます。スクリーンにはまだ何も映っていません。そこへあなたがやってきて映写室に入ります。手には、監督も脚本もあなたが手がけた一作のフィルム。技師でもあるあなたは、客に何を語りかけるでもなく、場内の照明を落とし、映写機にフィルムをかけまわしはじめます。コトコトとわずかに音を立ててまわるリール。少し煤けた銀幕には、観る者の心理に働きかける、深い深い“何か”が――。

ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(茨木のり子『自分の感受性くらい(新装版)』花神社/2005年)

一見「がんばれ!」という激励どころではない、もはや叱咤のようにさえ思える一編『自分の感受性くらい』。けれどしっかり読めば、この詩が迫っているのは書き手自身とわかります。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と厳しく己に向き合って怒りを表白しているのです。1977年にこの詩を表題として掲げる詩集を発表した茨木のり子は、のちに『倚りかからず』(筑摩書房/1999年)というベストセラー詩集を世に送り出します。彼女は常に心の深いところにある自分への怒りを探し当てて、あるいは他者の怒りに共鳴して、言葉を編みつづけた詩人でした。そうして至ったのが、晩年の「倚(よ)りかからず」の詩境。「できあいの思想」にも「できあいの宗教」にも「できあいの学問」にも、もう「倚りかかりたくない」、「ながく生きて 心底学んだのはそれくらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある」と詠われるその境地のなんと凛々しいことか。

誰か、何かに倚りかからずに目を啓くためには、まず自分を知らなくてはいけません。米国の詩人E・E・カミングスは「成長して本当の自分になることは、勇気がいること」と指摘しました。成長とは、現在の自分をひと皮でもいいから脱ぎ捨てて何者かになること。外的要因による自然な変化を待つのではなく、自分のなかに眠る何かを呼び起こそうとする能動性そのものが引き寄せる変化です。それを意識的に実行できる状態を、人は「ポジティブ」と呼ぶのかもしれません。

「世界」は「自分」を映し出す鏡

詩は頭に伝えるのではなく心に響かせるもの――との信念をもって詩を書きつづけ、104年の天寿を全うしたまど・みちお。「ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない」(『ぼくがここに』童話屋/1993年)彼はこんな言葉で、「自分」という存在性について世に問いかけました。同じ詩集にもう一編、興味深い詩が収められています。それは、自分を知るということは、別の見方をすれば「他を知る」ことではないかと教えてくれる詩。童謡は詩を書くより難しいと語ったまどの詩語は、衒いなくまっすぐで視線の純粋さが際立ちます。ちっぽけな存在が、微視的にも巨視的にも世界を見渡すかのようです。

天と地とがあるからのようにあるのか
昼と 夜とが
今日と 昨日とが
いや 今日と
その素晴らしい今日を
無限につづけるために訪れる明日とが

天と地とがあるからのように
火と 水とが
虹と やまびことが
そして 生き物と
そのやさしい ふるさと
生きていない物とが

天と地とがあるからのように
植物と 動物とが
男と 女とが
そして 親と
やがて より素晴らしい親になるための
愛らしい子どもとが

おお あるのか
天と地とがあるからのように
人間にも
眠りと 目覚めとが
喜びと 悲しみとが
そして 絶望と
その中からいつも生まれてくる
新しい希望とが
(まど・みちお『天と地とが』/『ぼくがここに』収載/童話屋/1993年)

世界とは広大なもの。実寸の距離で測るとすれば、どんな動植物にとってもそれは広大であるし、観念的な意味では無限とさえいえるかもしれません。しかし同時に世界は、自分という存在に寄り添うごく小さなものである場合もあれば、自分とことごとく重なる相似形の馴染み深い環境と見なすこともできます。無限であって、ちっぽけな「世界」。言葉遊びではなしに、世界とはどこにでも存在し得るものであると気づいたなら、相対的に自分自身にだって、伸縮自在の自由さ、しなやかさを見出すことができるのではないでしょうか。

テーマをイメージする、それこそは詩作の大前提

詩作法の基本をごく単純に言い切ってしまうなら、伝えたいことをイメージとして描く、ということに尽きるでしょう。試しに「ポジティブ」をキーワードにイメージしてみます。対比や逆説の意図がない限り、その風景に暗さや陰湿さや不穏さは不似合いでまず浮かんでこないはず。では、「ポジティブ」でどのように形容されるイメージが想起されるかといえば、明るい、楽しい、自由、穏やか、躍動的――。あれれ? それってひょっとして、ファンタジー?

二日に一度
この部屋で キリンの洗濯をする
キリンは首が長いので
隠しても

ついつい窓からはみでてしまう

折りたためたらいいんだけど
傘や
月日のように
そうすれば

大家さん
に責められることもない
生き物は飼わないようにって言ったでしょ って
言われ その度に
同じ言い訳ばかりしなくったってすむ
飼ってるんじゃなくて、つまり
やってくるんです
いつも 信じてはくれないけれど

ほんとに やってくるんだ
夜に
どこからか
洗ってくれろ洗ってくれろ

眠りかけたぼくに
言う

だから
二日に一度はキリンを干して
家を出る
天気のいい日は
遠く離れた職場からでもそのキリンが見える
窓から
洗いたての首を突き出して
じっと
遠いところを見ているキリンが見える
(高階杞一『キリンの洗濯』あざみ書房/1989年)

詩人・高階杞一は、見知らぬ世界ではなく、日常的な風景に不思議な物語を紡ぎ出します。『キリンの洗濯』が描くファンタジーは、“幻想”というよりもむしろキテレツな“現実”といったほうがピタリと来る感じがします。想像するに、何となくそこはモルタル塗りのアパートの2階、ベランダなどなく、軒下にピンチハンガーが斜めにぶら下がっているような小さな窓があるきり。キリンが選ぶならもっとほかによさそうな場所があるだろうに……と愚痴もこぼしたくなるそんな一室に、なぜか二日に一度というなかなかの頻度で、「洗ってくれろ」と網目の入った巨体がやってくるというのです。おそらく、「ぼく」もキリンも黙々と洗い洗われるのでしょう。干したキリンは遠くからも見え、当の干されたキリンも必要欠くべからざる儀式であるかのように落ち着いた風情――そんな絵を思い浮かべふっと軽く口角が上がればしめたもの。あなたはいま、まぎれもなく「ポジティブ」を運ぶファンタジーに触れたのです。

茨木のり子は、一種スパルタンな態度を自らに向けることで読者を鼓舞しました。まど・みちおは、自身を内包する世界の縮尺を操ることで自分の立ち位置を捉えようと詠いました。高階杞一は、ありそうでない、ないけどでもありそう――と思える不思議な可笑しみで読む者の頬を緩ませました。描いているものは三者三様、けれどもそれぞれに符合するのは、読み手の懐に熱源をそっと差し込んだことではないでしょうか。発熱するその塊はいつしか小さな火を灯し、いずれまた別の人の心を照らしてゆくのです。真のポジティブの正体とは、そんなところにありそうです。

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