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「放浪」という言葉に人は漠然とした憧れを抱くものです。湯煙を見て旅情を誘われる――などという意味ではありません。バックパッカーの旅よりもさらに“さすらっている感”の強い「放浪」は、自由と型破りの代名詞のような響きをもって人々の心をとらえるのでしょう。加えて「放浪の詩人」「放浪の作家」「放浪の画家」などと、より自由度の高そうな肩書きが付くと、これはもう大変です。彼らは放浪の末に朽ち果てる無名の徒ではなく、人間誰もが抱える孤独と苦悩を、詩なり小説なり絵画なりに昇華させ、群衆の真の思いを代弁してくれる凡人とは別世界に住む芸術家という人種なのですから。
西はアルチュール・ランボー、東は金笠(キム・サッカ)と、とりわけ詩人には放浪の気風があるようです。我が国日本に目を向ければ、放浪の歌人・俳人というと、西行、芭蕉がまず思い浮かびます(当ブログ記事「西行――その美しい孤独と桜」 / 「“日本的な”本を書くための俳句ワークアウト」参照)。彼らこそは短詩界の偉人、本邦が誇る放浪のスーパースター。が、そのいっぽうで、まったく違った理由から、已むに已まれず、あてどなく各地を流れつづけた俳人がふたりほどいます。
自由律俳句の二大巨頭、種田山頭火と尾崎放哉です。
西行・芭蕉の放浪と、山頭火・放哉の放浪がどう違うかといえば、まさしく“あて”のあるなしです。自らの意思と目的地を掲げ旅に出た西行と芭蕉に対して、山頭火や放哉は受け身も受け身、もはやそこへ行くしかないという場所に青息吐息で身を寄せ、何ごとからか逃げるようにその土地もあとにし、先細っていくようにまたどこかへ辿り着く……ということを繰り返したのです。「放浪」という語が、ある程度の見通しをもって進められる営み――とのニュアンスを含むとすれば、山頭火・放哉の旅はもっともっとあてどない「漂泊」と呼んでいいかもしれません。さらに、西行や芭蕉にとって「放浪」はあくまで芸術的な精神に端を発するもので、「旅」は俳句や歌を詠むための「旅」でした。いっぽう已む無く旅路に放り出された山頭火や放哉にとって、俳句づくりは愚痴の発散や自慰行為のように見えないこともありません。
彼らをその道に追いやったのは、基本的には経済的な困窮と心身の病、それに随伴する酒狂い、そして“とどめ”となる近親者との離縁です。その生き方の不器用さといったら常人離れ甚だしく、何の才覚もない一介の凡人をもってしてさえ、どうにか避けて通ることのできる災難や苦労を、あえて自ら拾い集めているようにも見えるのです。まるで、彼らが他の者の分まで肩代わりしているかのように――。
分け入つても分け入つても青い山
どうしやうもないわたしが歩いてゐる
笠も漏りだしたか
うしろすがたのしぐれてゆくか
わたしと生まれたことが秋ふかうなるわたし
(『山頭火全句集』春陽堂書店/2003年)
咳をしても一人
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
鳳仙花(ほうせんか)の実をはねさせて見ても淋しい
入れものが無い両手で受ける
(『尾崎放哉全句集』筑摩書房/2008年 ルビは引用者による)
同時代を生きた山頭火(1882年生まれ)と放哉(1885年生まれ)は、ともに荻原井泉水に師事し、生涯対面することはなかったものの互いの存在を心に留めていたようです。実母の投身自殺(自宅の井戸に)のトラウマに苛まれつづけた山頭火、東大卒でエリートコースを歩みながら実社会への不適合を悟って激しくドロップアウトした放哉。狂気や絶望に揺さぶられながら詠んだ俳句は、彼らにとって慰めであると同時に、自分たちを「生」に繋ぐただ一本のもやい綱となっていきました。ともすれば愚痴めいた失意が、ぼろぼろになった身内からこぼれるままに詠われた句もありました。しかし晩年、もはや病で外に出ることすら容易ではなくなった放哉は、命尽きるまで作句に没頭しました。放哉の死を知った山頭火は、托鉢僧の姿で旅をつづけ死処を定めました。こうしてふたりは見事な辞世の句を詠んだのです。
もりもりもりあがる雲へ歩む ―― 種田山頭火
春の山のうしろから烟が出だした ―― 尾崎放哉
行くところ、行くところで、生きていく手立てを見失って土地を転がってゆく。山頭火は自らのそうした生き方を「無駄に無駄を重ねたような一生」と自嘲しましたが、後世、そのなかで生まれた俳句が多くの者を惹きつけ、全国に無数の句碑が建ち、数え切れないほどの関連本が上梓され、名を冠した食品がコンビニに並ぶまでになり、これらの数は今後も増えつづけていくはずです。そんな影響力をもった男の人生を、誰も無駄であったとはいいません。孤独に心身を苛まれたとしても、あてどない放浪人生によって、山頭火と放哉の句は磨かれ完成されていったのです。余人にはおいそれと真似できない放浪ですが、彼らは壮絶な日々を過ぎこして、きっといずこかへ辿り着いたはず。それはどのような場所であったのでしょう――。ふたりの生涯と句に触れては、詩とは、俳句とは、そしてそれらを編む行為とはどういうものであるのかと、考えずにはいられないのです。種田山頭火と尾崎放哉。詩を書く者、作家になりたい者の頭上に、永遠に手の届かない星として燦然といまも輝いています。
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